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『NHKスペシャル | 731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』を見た。 [テレビ]

NHKスペシャル | 731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~

ネトウヨの多くはこの番組を捏造だと嘲笑したが、現実に目をつぶり、自分たちに都合の良い嘘の記録だけを継ぎ接ぎして歴史を歪曲するのは(ニッポンは素晴らしいが大好物の)ネトウヨの常套手段である。

戦時中、軍の上層部の司令によって、エリート医学者たちが中国人を使った残忍な人体実験を行った。いわゆる731部隊である。人間を人間とも思わないエリート医学者たちの罪悪感の欠如に私は怖気を震いながら、この番組を見た。人体実験の様子が映るたびに目を多いたくなる気持ちを我慢しながら見ていくにつれ、医学者たちの倫理観の欠如に、ナチスの強制収容所にユダヤ人たちを送り込む仕事に邁進したアイヒマンが重なってみえた。エリート医学者たちは、ソ連軍が満州に侵攻する前に、軍部に特別船をチャーターしてもらい、さっさと日本に帰国し、その後、なんの反省もなく、またなんのお咎めもなく、各地の帝国大学の教授になり、悠々自適の学級生活を送っていった。一方、末端の医師(技師)たちの中には、良心の呵責に苛まれ、責任を取って自殺したものもいたという。昭和天皇以下、戦後、一切の責任も取らずして、のうのうと生き延びた者たちがこの腐り切った国を作ったのだと思うと、反吐が出る。

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当然の事実だが、科学は人を幸せにすることもできるし、不幸のどん底に陥れることもできる。それは、科学を利用する人間の成熟度如何に関わっている。哲学や文学などの教育を充実させないと、この国は危ない。福島の原発事故の構造も、731部隊と何ら変わらない。


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『NHKスペシャル | 樺太地上戦終戦後7日間の悲劇』を見た。 [テレビ]

NHKスペシャル | 樺太地上戦終戦後7日間の悲劇

2017年8月14日(月) に放送されたものを録画で見た。

1945年8月15日は天皇の玉音放送によって敗戦を認めたにもかかわらず、樺太にはその連絡が届かず、また大本営もその情報を伝えることなかった(停電があったというのも一因らしい)。上層部は、ソ連の侵攻をを防ぐために、武器を持たない一般市民を義勇軍に仕立て、結果、多くの犠牲を払わせることになった。無責任な権力者の言いなりになってはいけないということを教えてくれるよい番組であった。

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こんな番組を視聴することを通じて、戦争の内実を深く知っていくと、現政権を手放しで支持するネトウヨの愚かさが、如実に浮かび上がってくる。



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『NHKスペシャル | 戦慄の記録インパール』を見た。 [テレビ]

NHKスペシャル | 戦慄の記録インパール

2017年8月15日(火) に放送されたものを録画で見た。

大東亜戦争の中で、もっとも無謀な作戦とされるインパール作戦についての「戦慄の記録」である。作戦の指揮を執った牟田口廉也司令官は、ビルマからインドのインパール(イギリス軍の拠点の1つ)までの片道分である3週間分の食料のみを兵士たちに持たせただけ、十分な兵站(後方支援)もないまま、3ヶ月もの間、作戦を続行し、撤退を決めた後、帰還途中で兵士たちを大量に犬死(病死、餓死、自殺)させた。戦後、責任を問われた牟田口は、反省することもなく、上層部の司令に従ったまでだと答えたという。ところが大本営は、勝手に牟田口たちがやったもので、自分たちは指示していないという。このような軍部(国家)の無責任体制が日本を破滅に導いたのである。我々日本人はこの伝統を恐ろしいほど忠実に受け継いでいる。

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現場の兵士たちは、餓死した仲間の兵士たちの肉を切り取り、それを食べ、または物々交換をし、生きながらえたという。

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牟田口司令官に仕えた斉藤少尉は、人を人とも思わない牟田口の言葉や修羅場を日記に克明に記している。

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牟田口の記録の中に、「上司の指示」という言葉がある。

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「将校下士官は死んでいない」という斉藤少尉の言葉が突き刺さる。

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国家はつねに誤った道を進むものだ。我々庶民は、国家のために命を捧げるようなことがないように、国家の横暴を食い止めるという強い意志を持っていなければならない。

『本土空襲全記録 NHKスペシャル』を見た。 [テレビ]

NHKスペシャル | 本土空襲 全記録 2017年8月12日(土) 午後9時00分~9時49分

ようやく見ることができた。精神的にきつい内容なので、いまのいままで見ることができなかった。いま見る気になったのは、あまりに気分が塞いでいるからである。

アメリカは当初、日本の軍事施設をピンポイントで攻撃しようとしていたのだが、次第にジャップへの憎しみがエスカレートしていき、民間人を無差別攻撃し、最後には原爆を2発も落とし、さらには日本がポツダム宣言受諾を通達した後も、日本全土に爆弾を落としまくり、最終的には何百万人もの日本人を大量殺戮した。

通例、戦争というものは、兵士と民間人を分け、兵士を攻撃対象とするものであるが、この大量殺戮はなぜ起きたのか、そのあたりは、以下に掲載した写真のところで解説されているが、その説明が私にはどうもしっくりこない。

戦争末期、「義勇兵役法」を施行し、すべての日本人が兵士になった。それは、アメリカ軍をして、日本にはただの一人も民間人はおらず、ゆえに、日本人全員を殺戮してもよいという考えに導いたというのだ。太平洋戦争以後も、アメリカ軍は、世界中で同じような殺戮を続けている。その恨みを買って、テロリズムの恐怖におののいている。私には自業自得に思える。

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B29に乗っていたパイロットが、戦争から数十年後に日本を訪れたときに訪れた心の変化を、そのパイロット自身に語らせている。日本の街を歩いているときに、ここにも自分たちと同じ人間が住んでいるのだ、そしてビルの谷間から空を見上げたとき、自分が乗ったB29に爆撃されるかのような気分になったという。(人間がいかに自分一人だけのパースペクティブに囚われているか、いかに愚かしいものかを示していると思う。ピカソの『ゲルニカ』を見よ!)一方、無差別攻撃をされ、体の中に鉛の弾を打ち込まれたまま何十年も暮らしてきて、体が鉛毒でボロボロになってしまったお婆さんに、自分に銃弾を打ち込んだ人を憎んではいけない、その人だって殺したくて殺したわけでもないのだからと語らせている。実際、そのパイロットは興奮剤を飲まされて、殺したくて殺していたらしいのだから、どうも納得がいかない。

もちろん、憎しみの連鎖に歯止めをかけない限り、われわれは心安らかに暮らすことはできない。まったくその通りなのであるが、しかし、いまなおアメリカ軍は、日本全土を支配下に収め、横暴を働いている。その横暴にわざわざ安倍政権は手を貸すような真似をしている。正気の沙汰とは思えないこの状況に目をつぶって、アメリカ人を許してやれるほど、私は寛容な人間にはいまなおなれない。





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100分de名著 親鸞『歎異抄』話:釈徹宗 [テレビ]

名著53 歎異抄:100分 de 名著

親鸞が浄土真宗の宗祖であるということは学校で習ってはいたが、もっとも印象に残っているのは、祖母の家の仏壇にあった親鸞の掛け軸だ。眉毛が太く、しかも、眉尻がぐいっとつり上がっているのが、恐ろしかった。祖父の仏壇に線香を上げるときに、横から睨まれているようでいて、親鸞は幼いころの私のトラウマだった。高校生になると私は哲学や文学や宗教に目覚めた。哲学者の吉本隆明の本を読んで、親鸞の『歎異抄』がなんだかわからないがものすごい本なのだということをおぼろげながらに理解した。

親鸞聖人ガイド | 観光いばらき(茨城県の観光情報ポータルサイト)

釈徹宗先生のおかげでようやく、親鸞上人は、単に顔の怖い人というだけではないことがわかった。

簡単に言えば、親鸞は、従来の自力本願(自分を救うには自分の力でしなければならないし、またそれができるとする)仏教をキリスト教やイスラム教のように救済型の宗教にパラダイムシフトした人だった。ゆえに、親鸞の起こした浄土真宗は他力本願の仏教と呼ばれる。

親鸞は自分の力でなんとかできる人を「善人」と呼び、自分の力ではどうすることもできない人を「悪人」と呼ぶ。「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉は、仏教はそんな落ちこぼれの「悪人」を救うためにあるということを意味する。釈先生は、仏教は「泳げない人のための船」であるという喩えを使っている。

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我々は自分の都合や、社会の都合で、善悪を判断し、その価値判断を他人に押し付ける傾向がある。しかし、親鸞はそれは間違いであるとも言っている。自分がしていることは正義であるとか、他の人がしていることは悪であるとか決めつけるのは、それは自分や社会の都合(「はからい」= 判断、考え)でしかない。我々衆生の者は、「はからい」を捨てて、すべてを阿弥陀如来にお任せし、あるがままを受け入れることによって初めて、阿弥陀如来に抱擁され、救われたと感じられるのだ。自分の人生を振り返ってみたとき、そうあるべきであったと思えるようになること、それが自然(じねん)という概念だ。そういう状態で念仏を唱える、いや唱えさせていただくことこそが、仏教に帰依することであり、往生を遂げるということなのだ。

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宗教とは何かと問われた釈先生は、宗教とは物語だと答えている。私一人のために書かれたものであるかのように思える物語に出会ったとき、それまでの自分とは違う自分になっており、以前の自分にはもう戻れない。それが物語であるという。私も常々述べているように、storyは「階」をも指すのだから、物語に触れると、階が上がるのである。

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新興宗教の多くは、既存の宗教のつまみ食いをしていけば、スーパー宗教になると浅はかに考える。オーム真理教も真光も立正佼成会も創価学会も幸福の科学も霊波之光も同じようなものだろう。しかし、そんなものは、ただのゴミの寄せ集めである。それはものの考え方を根本から変えることができない。そして、問題なのは、これは良くて、あれはダメだ、これは役に立って、あれは役に立たないという自分や社会の都合で物事を判断するような価値観を身につけてしまうことによって、リミッターが外されて、思考が暴走を始めてしまうことだ。正義感が強い人ほど、その危険性がある。戦争というものの多くは、人間が自らの愚かさを忘れたときに、リミッターが外れ、起こるものである。

親鸞の『歎異抄』は、そんな愚かな人間にリミッターをかけてくれる物語であると釈先生は言う。親鸞は、単に怖い顔のお爺さんではなかったのだ。




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NHK『ファミリーヒストリー  オノ・ヨーコ&ショーン・レノン』 [テレビ]

NHKドキュメンタリー - ファミリーヒストリー「オノ・ヨーコ&ショーン・レノン」
オノ・ヨーコが番組スタッフに見せた“母の顔” ファミリーヒストリー |NHK_PR|NHKオンライン

オノ・ヨーコは、ジョン・レノンの後妻として、女性前衛芸術家として、そして平和活動家として世界中から不当なバッシングを受け続けてきた。そんな彼女のファミリールーツをたどる番組が今年の8月に放送された。

ヨーコの曽祖父は岡山藩の武士。曾祖母は二本松藩の武士の娘。官軍と幕府軍という敵同士の結婚だったというところから、ヨーコの家族史が説き起こされていく。

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祖父の小野英二郎は同志社に進学するが、徴兵制を逃れるために、アメリカのオバーリン大学に留学し、その後ミシガン大学の大学院に、日本の産業革命を論じた博士論文を提出し、経済学の博士号を取得する。帰国後、英二郎は日本銀行の総裁まで上り詰める。

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彼のスピーチは、後のジョンとヨーコの考えの先取りのように思えると、ジョンの息子のショーンは指摘する。

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ヨーコの父親である小野英輔は、英二郎の三男。東京大学に入学し、いったんは数学者を志すが、父の意向に従い経済学を学び直す。その後、横浜正金銀行に勤務し、日本興業銀行の総裁にまで上り詰めた人物だ。彼の妻 磯子は、4大財閥の一つ安田財閥のお嬢様である。

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ヨーコはニューヨークのサラ・ローレンス大学で詩と音楽を学び、芸術家として活動しているときに、ジョン・レノンと出会う。ヨーコのギャラリーにジョンがふらりとやってきたのだ。ヨーコは、観客が芸術作品の生成過程に参加するという作品を展示する前衛芸術家だ。特に有名なものは、観客が壁に釘を打ち付けていく作品だ。また、わざわざ脚立に上って天井に書いてある小さな文字を虫めがねを覗き込むと、そこには、小さくyes(全肯定の言葉)と書いてあるという作品もある。さらに、ステージに無抵抗に座っているヨーコの服に、観客がハサミを入れていき、徐々に裸になっていくのを見て、観客が何を思うのかを観客自身に問うという作品など、今でこそ大衆から反発を食らうことは想像もできないだが、当時はセンセーショナルすぎて、人々になかなか受け入れられるものではなかった。そんなヨーコの芸術的なセンスに惚れたジョンは、ヨーコとすぐに結婚する。二人は、結婚を発表する機会を利用して、平和を訴える「ベッドイン」という芸術作品にしてしまう。

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ビートルズを脱退したジョンは、ヨーコとともに、政治的なメッセージの強い作品を作っていく。そのひとつが、「イマジン」だ。この作品は、ジョン一人の作品だとされてきたが、実は、ヨーコの書いた詩に非常に強い影響を受けている。歌詞に表れているヨーコの思想はまた、祖父英二郎の思想を継承したものでもあることがわかる。

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そして、ようやく、名曲「イマジン」が、ジョンとヨーコの共作であることが公式に認められることになったという。めでたしめでたし。

この物騒で野蛮な時代において、オノ・ヨーコはいま最も再評価されてしかるべき芸術家の一人だと思う。



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NHK映像ファイル あの人に会いたい 山口仙二(反核・平和運動家) [テレビ]

NHK映像ファイル あの人に会いたい▽アンコール 山口仙二(反核・平和運動家)

もう10年くらいになるだろうか、ほぼ毎回欠かさず『NHK映像ファイル あの人に会いたい』を録画して見続けている。8年くらい前に、川口のスキップシティに私の両親を連れて遊びに行ったときに、展示室内に設置してあったテレビで三島由紀夫の回が流れていて、それを母親と一緒に観てからというもの、この番組の虜になってしまったのだ。『あの人に会いたい』は、その年に亡くなった有名人の人生を8分程度にまとめたもの。山口仙二さんの回はアンコール放送だ。山口さんが亡くなったのは2013年である。

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山口さんは14歳のとき長崎で被爆。米軍は、原爆の威力を確認するために、被爆者たちの様子を撮影していたが、その記録の中に山口さん自身の映像が残されていた。4000度の熱で焼かれた皮膚はどろどろに溶けて、黒焦げになった部分を触るとポロポロと落ちたという。ショックから回復した後、山口さんはアメリカに対する憎しみの感情が生まれていったと語っている。

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その後、「原爆の後遺症と言われなき差別に苦しんだ山口さんは、昭和30年の第1回原水禁世界大会をきっかけに反核・平和運動に身を投じる。国連での「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」の演説は世界の人々の心を動かした。アメリカ各地を行脚し、原爆の悲惨さを訴えた。最後まで反核平和を訴え続けた82年の人生だった。」

番組の中で、自分の息子を戦争で亡くしたと思しきアメリカ人の女性に、「そう言っても、あんたたちは真珠湾攻撃をし、大勢のアメリカ人を殺しただろうが」と罵倒される場面がある。山口さんは、れっきとした被害者であるにもかかわらず、彼が加害者、犯罪者扱いされる様子を見ていると、いたたまれない気持ちになってくる。彼が被爆したときはたった14歳だったのに。いったい誰が悪いのだろうか。アメリカ軍なのか、日本軍なのか、山口さんなのか。

核兵器は廃絶すべきであると主張すると、ネット上では、左翼だとか言ってバカにする人がぞろぞろとどこからともなく現れる。「リアリスティックに考えろ」と「マウンティング」し始める。あろうことか、安倍政権はアメリカに配慮して核兵器禁止条約には調印しなかった。広島の原爆投下の日の記念式典に出席した安倍総理が、被爆者から「あんたは、どこの国の総理なのか!」罵倒されたのは、日本人として情けなく思った。核兵器廃絶の取り組むICANNという日本発祥の団体が、ノーベル平和賞を受賞したときも、安倍総理はいっさいコメントをしなかった。安倍総理は、ほんとうに日本人なのだろうか。

世界で唯一の被爆国である日本に住む人間としては、被爆者の気持ちに寄り添い、核兵器廃絶を主張し続けることこそ、日本人の自己規定であり、またそれこそが日本人としての義務であると思う。その義務を怠れば、山口さんを敵視し罵倒したアメリカ人のオバサンと同じ立ち位置になってしまう。

近頃は、日本も核兵器を保有すべきと軽々しく主張するものが増えてきているように感じられる。安倍総理も小池百合子都知事も核武装論者である。北朝鮮の核兵器の脅威に対抗する手段として、もしかしたら、核武装は対話よりも有効なのかもしれない。しかし、核兵器廃絶を訴える説得力は、唯一被爆国の日本に暮らす人々しか持つことができない。いったん核武装をしだしたら、日本人は日本人としてのアイデンティティを失ってしまう。それだけではなく、我々は憎悪の連鎖に巻き込まれ、自滅の道につながる危険性を高めるだけである。(少子高齢化の進行で日本人が絶滅するよりもはるかに早く、日本人は絶滅してしまう。)

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山口さんの言葉は日本人の心にいまなお重くのしかかっている。



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NHK『100分de名著 ハンナ・アーレント』 [テレビ]

9月にNHKで放送された『100分de名著 ハンナ・アーレント』第1回から第4回までをようやく見ることができた。

ハンナ・アーレントはナチス・ドイツを逃れ、アメリカに亡命したユダヤ人哲学者だ。彼女は、なぜ全体主義が生まれてしまったのか、そしてアイヒマンのような「陳腐な悪」が現れてしまったのかを研究した。世界が再び全体主義に覆われそうになっている今、あの悪夢を繰り返さないように、我々はアーレントの研究を知っておかなければならない。

全体主義が発生した原因として、我々はヨーロッパにおける資本主義の誕生まで遡らなければならない。資本主義というのは、資本を拡大させる動きそのものである。資本を拡大させるためには、外部が必要だ。資本は外部を求めて、西洋文明以外の世界にたどり着く。西洋人はアフリカで自分たちとは考え方も風俗もまったく異なる人々と接触する。彼らは、そんなアフリカ人を理解することができなかった。そのため、アフリカ人は自分たちより劣っており、彼らは白人へ進化する過程の途上にあると考えてしまう。結果、白人は有色人種を支配する権利があるという傲慢な思想を持つに至る。「人種主義」(racism)の誕生である。人種差別主義と言ったほうが通りが良いだろうか。いまだに白人の多くは、その差別意識を持ち続け、白人以外の人々の差別的言動がニュースになることは事欠かない。もっと恐ろしいのは、非ヨーロッパ人がその思想を「逆輸入」していることだ。それは、西洋人が自分たちのアイデンティティを確立するために東洋に対する独自のイメージを想像し、そのでっち上げられたイメージを東洋が受け入れるというオリエンタリズムと完全に同期している! いまだに日本人は白人に対して卑屈な態度(例:「グローバル化」「ケツ舐め外交」)を取り続けているが、日本人の多くがいまだに白人を最上位に据える人種差別主義を共有していることは明らかである。

当時のヨーロッパは、帝国主義が席巻していた時代であった。スペイン、ポルトガル、イギリス、フランスが先行し、ドイツはその流れにだいぶ乗り遅れていた。ドイツ人たちは、かつて自分たちの祖先が住んでいた土地を回復し、ドイツ帝国を建設したいという欲求にとらわれる。ところが、そこには、ドイツ人とは異なる民族が多く住んでいた。

19世紀のヨーロッパでは、ナポレオンが鼓舞したことにより、ナショナリズムが台頭する。それは一つの国民が一つの国家を形成すべきという思想である。もちろんさまざまな民族が入り混じって暮らしていたヨーロッパでは、「単一民族」が国民国家を形成すべきであるというのは、ファンタジーにすぎない。しかし、ファンタジーというものは、時として、現実を変えてしまうほどの力を持つことがある。

この「ナショナリズム」と、ヨーロッパ人がアフリカ人など外部の文明と接触することで生まれた「人種主義」とが融合し、「民族ナショナリズム」が生まれる。

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「民族ナショナリズム」は、国家は、国家を形成する単一の民族の利益のために存在するのであるから、自分たちの国民国家に属していない人々は守る義務もないし、そもそも存在してはいけないのだという排他主義に発展していく。(どこかで聞いた話である!)フランス革命以降、ヨーロッパでは天賦の基本的人権の思想が広がっていたが、それにもかかわらず、個人の権利を重視する理想は軽んじられ、むしろ国家・民族を優先する状態に変化していく。それこそが「全体主義」である。そして、国家の利益こそが、個人の利益であるという錯覚も生まれていった。当然だが、国家は個人ではないのだから、国家の利益が個人の利益と完全にイコールになるわけではなく、むしろ、相反する場合も多い。そんな当たり前のことに大衆は気づけなくなっていく。今、日本では、「国益」という言葉を金科玉条のように思っている人々がいる。国益を守る生き方こそが道徳的な生き方だと錯覚しているのである。彼らは全体主義に片足どころか両足を突っ込んで、すでに身動きが取れなくなり、思考停止状態になっている。

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この全体主義の主体は、恐ろしい人格を有するカリスマ指導者ではなく、ふつうの人々、つまり「大衆」である。大衆とは、文字通り、どこにでもいるような普通の人である。彼らは、民主主義を支える主体としての「市民」意識を持たず、政治や公的なものにはまったく関心がない。社会を良くするために、為政者に自ら積極的に働きかけることを望まず、ただ単に自分が気に入ることを誰かが言ってくれるのをひたすら待っているだけの「お客様」なのである。映画監督の想田和弘さんが現代の民主主義を「お客様民主主義」と呼んでいるが、まさにそれである。その意味では、日本の多くの人々は、いまなお「全体主義」の主体である「大衆」のままなのである。

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全体主義は、人々を一つにまとめる(全体化する)ために「嘘」をつく。全体主義は、自分の頭で考えない愚かな「大衆」に、「世界観」(ファンタジー)によって「快楽」を与える。自分たちは他の民族よりも優れた民族であり、自分たちこそ正義であると。だからこそ、大衆は、ファンタジーを信じ、心地よい「嘘」の中で生きることを選び、それによって日常の不安を忘れるようとする。ツイッターで、民主主義を守れと主張する人たちを見つけるやいなや、紋切り型のコピペの文で批判する人たちがいる。彼らの他のツイートを見てみると、当たり前だが、野球好きだったり、サッカー好きのどこにでもいるようなオッサンとか兄ちゃんであることがわかる。彼らは、思想信条に関しても、まるで野球やサッカーの試合のサポーターであるかのように振る舞う。自分たちが何らかの理由で(多くの場合は明確な根拠は見いだせない!)応援しているチームを非難する人たちを、彼らは一方的に敵とみなし、情緒的に攻撃する。政治もまたゲームであると思いこんでいるのだ。そんな彼らの理性や知性は、木っ端微塵に砕け散ってしまっている。

今まさに、このような幼稚な人々が、世界各地に増えてきている。言うまでもないことだが、日本に雲霞(うんか)の如く大量発生している陳腐な「ネトウヨ」ちゃんのことである。彼らは、自民党のネットサポーターとして、自民党を応援し、野党を批判する記事やツイートをしてお小遣いをもらっているという。それが民主主義を破壊し、自分たちの基本的人権を弱くしていることに彼らはまったく気づいていないのである。

(ちなみに、そのお小遣いを提供しているのが、驚くべきことに、内閣府であるということが、最近、暴露された。現在の安倍政権においては、完全に立法、行政、司法の三権分立が崩壊し、自民党の中にその三権が一致しているということの証拠のひとつである。)

ハンナ・アーレントは、全体主義の研究の流れで、アドルフ・アイヒマンについても研究をしている。アイヒマンは、ドイツの親衛隊(SS)の隊員で、数百万のユダヤ人を絶滅収容所(強制収容所)へ移送する任務を効率的に遂行した役人である。彼もまた、ネトウヨのように、どこにでもいるような普通の人間であるが、そんな人間がなぜこれほどまでに恐ろしいことができるのかについてアーレントは強い関心を抱く。彼女はアイヒマンの体現する「悪」を「陳腐な悪」と呼ぶ。

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アイヒマンは、上司に命じられたこと、かつ法律に従っていることに従っていれば、それでいいのだと考える。企業の中にも、コンプライアンス(法律や決まりごとを遵守すること)意識は高いけれども、ただそれだけという労働者がいると思う。彼らもアイヒマンと同じである。アイヒマンは、自分に与えられた仕事だけを忠実にこなしていたために、全体を見渡すことができなかった。ゆえに、自分がいかに恐ろしいことをしているのかということに気づけなかったし、気づいていることに気づかないようにして生きていたのだ。

我々は誰でもアイヒマンになる可能性はある。自分がアイヒマンのようにならないようにするためには、ひとまず、自分自身の考えを疑ってかかってみることしかない。自分はもしかしたら自分が信じたいことだけを信じているだけではないかと疑うことによって初めて、他者の考えを理知的に理解しようとする心の余裕が生まれる。そうやって他人の考えを論理的に分析した上で、それを受けて、さらに自分の考えを発展させるという態度を鍛えることが重要なのだ。それはアカデミックな世界観そのものである。それこそが民主主義的な知性なのだと思う。

私は『100分de名著』という番組をときどき見ている。そのたびに数少ない有益なテレビ番組だと感心するのだけれど、今回はいつにもましてためになった。番組の進行の中で、司会の伊集院光さんが、安倍晋三をヒトラーにたとえそうになるところが何度も見られた。おそらく編集でうまくカットしたようだが、見る人が見れば、伊集院光さんが言いたいことは一目瞭然だ。近頃のNHKは、ずいぶん攻めているなあ、と思った。

この番組を見ていると、20世紀的な学問的な知見を大学でしっかり学んできた人たちは、共通してみな同じことを考えているということに気づく。彼らはみな個人の自由や人権、多様性・複数性を重んじ、排他主義や差別意識を悪とみなし、弱者を擁護する立場に立つ。いわゆるリベラリストと呼ばれる範疇に入る。一般教養というのは、英語ではリベラル・アーツ(Liberal Arts)と言うが、文字通り、リベラル(Liberal)になるための技芸(Arts)のことだ。大学で学んできた人が、リベラルになるのは当たり前といえば当たり前のことである。ちなみに、リベラリストというのは、奴隷ではなく、自分の頭で考える権利を有する自由人のことだ。逆に言うと、大学で、リベラルアーツを学ばなかった人たちは、文字通り、自分の頭で考えられない「奴隷」なのである。

最近ネット上で見られる声はみな、20世紀以降のアカデミズムが鍛えてきた知見にことごとく反している。だからこそ、反知性主義の台頭が危惧されるのだろう。そんなアカデミズムの立場の人間からすると、奴隷的かつネトウヨ的な言説は理解不能であり、まったく共感できない。彼らの思考回路の中に入っていこうとしても、つねに自動ブレーキがかかってしまうのである。それは私(我々)の知的限界のせいなのか、それとも、あまりにネトウヨがバカすぎるのか、どちらなのか私にはわからない。

もしかすると、ネトウヨの背後に、H・G・ウェルズが『1984』の中で描いたビッグブラザーが潜んでいるのかもしれない。当座、日本の政治の世界では「日本会議」が悪の根源とされているが、「ビッグブラザー」はそんな実体のあるものではないような気がする。もっと大衆の心の中の奥深くに潜んでいる何かに違いない。ビッグブラザーは「ゾンビ」のようなものなので、息の根を止めることは不可能だ。我々は、常に不断の努力によって、表に出てこないように、「ゾンビ」を檻の中で飼っていなければいけない。近頃は学問の力に慢心して、その努力を怠っていたために、ゾンビが復活してしまったのだとしたら、悪いのは、我々なのかもしれない。


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大谷某氏はジャーナリストとしてどうなの? [テレビ]

児童に「窓から飛び降りなさい」と教師が迫った?保護者から疑問の声 - ライブドアニュース

当事者の一方的な話をまったく検証もせず、真実として報道してしまうマスコミの姿勢に疑問を持っている人は多い。私もその一人である。

昨夕、テレビのスイッチを入れると、テレビ朝日のスーパーJチャンネルになった。コメンテーターの大谷某氏が、「学校に警察を入れないといけないのではないか」などという持論を展開していた。あまりに呆れて、「馬鹿か」と言って、すぐにチャンネルを替えてしまった。私のことばをわきで聞いていた妻は、「そういえば、長男が中1の頃、学校によく警察が来ていたわよね」と一言。「確かに。しかし、学校というのは教育機関なので、基本的には素行が悪い子供がいれば、警察に突き出すということはせず、学校の中で教育していくものだよ」と返した。

所沢の事件は、状況がまだ正確にわかっていない。児童が担任の教師に「窓から飛び降りなさい」と言われたという話は実にセンセーショナルで、ニュースになりやすい。だから、瞬間湯沸かし器のように感情的なコメントをしたがる阿呆なコメンテーターがいるのだろう。そして、大谷某はその一人にすぎない。

警察を学校に入れろという主張に何の疑問も抱かないのは、大谷某がもともと読売新聞の記者だったから
かもしれない。これはかなり怖いコメントである。それを自覚していない大谷某の知性を私は疑ってしまう。

今回の事件では、同じクラスの女子生徒の話を聞いた保護者が、たびたびトラブルを引き起こす児童の主張をマスコミが100%信じてしまっていることに疑問を持っているとフェイスブックに書き込んだことで展開が大きく変わる可能性がある。

ジャーナリストとして、裏も取らずに、一方の意見のみを鵜呑みにし、感情的なコメントをしてしまう行為が最低であることを大谷某氏が認識していない可能性がある。安倍シンパの田崎スシローは、政府与党の主張はすべて正しいと主張しているが、大谷某は、スシローと同じワイドショーのコメンテーターレベルであることが発覚してしまった。もし教員に決定的な否がないことが確認されたら、大谷某氏は責任を取って、番組のコメンテーターの座から降りてもらいたい。

ついでに言うと、日テレの夕方の番組のコメンテーターである中央大学大学院の某教授も、当たり障りのない何の意味もないコメントしか出来ない。あの人も不要である。





丁(てい)字路 [テレビ]

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私も「丁(てい)字路」のことを「丁(てい)字路」と言っており、「T(ティー)字路」なんて言わない。改めて辞書で調べてみたら、れっきとした日本語で、「丁字形に交差している道路」という定義が書いてあった。最近の若者は、「T(ティー)字路」だなんて、言っているのか。そちらのほうがびっくりだ。