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幻楽団「トロンボーン漫談」 [テレビ]



すごいなあ、これ。

この芸人さんたちのことを知りませんでした。



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羽生結弦エキシビション(ノーカット実況なし)&古今亭志ん生「松山鏡」 [テレビ]



羽生結弦のエキシビション。ノーカット実況なし。テレビではニュースさえも見る機会がなかったので、今回、技の解説や得点や愛国的な応援に邪魔されずに見られたのはラッキーだった。

彼のパフォーマンスは、バレエダンサーを思わせるような優雅さが漂っている。フィギュアスケートというのは、本来こうあるべきなのかもしれない。女性が彼の虜になる理由がよくわかった。



私は、メドベージェワのほうが好きだけれどね。羽生結弦の演技は女性っぽくて、メドベージェワは男性っぽいのが好対照で面白い。



サギトワは、ものすごい色気。15歳の少女とは思えない。



私みたいなオジサンは、こういう爺さんが大好き。嫉妬にかられる女性を演じる爺さんの色気に吸い込まれるような魅力を感じてしまう。羽生ファンにはわからないだろうけれど。

NHK BS『ノーベル文学賞 カズオ・イシグロの世界』 [テレビ]

NHK BSで放送された『ノーベル文学賞 カズオ・イシグロの世界』を見た。敬愛するボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した翌年に、カズオ・イシグロはノーベル文学賞を受賞することになった。これは、文学の存在価値や存在意義が大きく変わったことを示す事実だろう。

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文学にとって重要なことは、社会や物事を「分断」する基準を見極めることだとイシグロは考えているようだ。

イシグロが言うように、20世紀はプロパガンダの時代だった。我々はある程度ヒトラーやスターリンのファシズムに対しては抵抗力がついているが、いまはまだフェイクニュースについての免疫は持ち得ていない。だからこそ、自分が見たくないもの、知りたくないものを盲目的にフェイクニュースと決めつける。そんなポピュリズムが蔓延する時代における文学は、「分断」について考えるための素材(物語)を愚直に提供し続けなければならないのだ。


スモール・チェンジ? [テレビ]

NHKの番組で、shrinkflationという造語を、small changeなどと言い換えているのを聞いた。

聞き捨てならない。

シュリンクフレーションはステルス値上げのこと。つまり、内容量を減らしておきながら、価格据え置きにして、消費者に値上げを気づかせない姑息な方法である。

醤油や牛乳やヨーグルトやらスナック菓子やら、あらゆるものが内容量が少なくなっている。

消費者が、その事実に気づいていないとでも思っているとしたら、メーカーはあまりに消費者に対する敬意を欠いている。

NHKとしては、シュリンクフレーションをスモール・チェンジなどと呼べば、英語を知らない視聴者にもわかりやすいと思ったのだろうが、それはあまりに浅はかだ。

small changeは「小銭」のことであることくらい中学生にもわかる。

それを知っている人たちにとっては、かえって混乱させてしまう。

NHKはぜったいに紛らわしい言葉遣いをしてはいけない。





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杞憂と危惧 [テレビ]

先週末のNYダウの急落に関して、テレビやネットでは、火消しばかりだが、果たして明日からの世界の株式市場はどうなるのだろうか。ダウの急落は、下落率で見たら大したことではないので、まったく心配がない、という意見が多いようだ。ダウは高値から1000ドルしか下がっていないが、日本株のほうはすでに2000円も下がっている。割合はアメリカのおよそ2倍だ。月収24万円の人が今月は2万円減って22万円になったようなものなのだけれど、心配しなくてもいいのだろうか。

(NY株の急落でも、アマゾンは上がったらしいですが、現在のPERは313倍。今の株価に見合う利益を得るためには313年もかかるわけです。大丈夫なのでしょうか。とはいうものの、アマゾン株を持っている人は、大金持ちになっているわけですから、よくわかりませんね。)

テレビを見ていたら、仮想通貨(暗号通貨)について解説するという番組をやっていた。イントロだけ見て、あきらかに学ぶところがなさそうだったので、チャンネルを替えてはみたものの、そちらもくだらなかったので、また戻ってきたら、コメントを求められた精神科医の名越康文さんが、「これまで我々はお金に利子がつくということを前提に考えてきたけれど、もともとお金は物々交換を楽にするために作られたものなのだから、交換のための媒介として使うという基本に立ち返る必要があるのではないか。そうすれば、どんどん交換されるようになると思いますよ。」などと、わけのわからないことをその場しのぎで語っていた。仮想通貨の存在意義の話から大きくズレた、あまりに頓珍漢なコメントで、呆れてしまった。そのうえ、名越さんは、自らも恩恵に預かっている資本主義経済を完全否定していることに気づいていないのだ。さらに江戸時代のように、貨幣価値が300年間ほとんど変わらないという桃源郷のような状況に戻れると思いこんでいるのが実に不思議である。日本の購買力平価がここまで下がって貧乏になってきているというのに、貨幣の価値は変わらなくていい、利子はつかなくていい、給料も上がらなくていいなどと言うようであれば、我々は外国人に不当に安い賃金で働かされるような明治時代に戻ってもいいという話になる。テレビを見ている人たちには、こういう意見は受けが良いのだろうが、冷静に考えたら、付加価値を否定すること自体、人類学的な知見からもかけ離れている。

それから、もっと問題なのは、安倍政権の傍若無人な政治の私物化である。その問題にはいっさい触れず、相撲協会の理事選挙の話を詳しく解説するような番組ばかりを流している。これまでうちの妻は貴乃花親方は憎々しいとか、日馬富士に同情するとか言っていたけれど、まったく関心を失っているというか、呆れ果てて、いまでは韓国ドラマばかり見るようになってしまった。

テレビは国民を教育する機能も持っているはずだから、少しは啓蒙的な活動もしてほしいものだ。しかしながら、テレビそのものが「蒙」になっている昨今、国民が「蒙」化することは避けられなくなっていることを危惧する。



孤独のグルメ大晦日スペシャル2017 [テレビ]

年末にテレビ東京で放送された「孤独のグルメ大晦日スペシャル2017」をようやく見ることができました。今回は最後にライブのシーンを挿入するという趣向が凝らされており、驚きました。

ご存じない方のために「孤独のグルメ」というドラマを少し説明させていただきます。主人公は個人で貿易商を営む井之頭五郎。彼は生来の大食漢。仕事中であろうがなんだろうが、空腹を覚えるやいなや、いてもたってもいられなくなり、無我夢中になって食べ物屋を探し歩きます。彼は天性の勘でうまい店を見つけ、金の心配もせず、店のメニューを片っ端から食べつくします。食べたいときに食べたいように食べたいだけ食べるというのが彼のスタイルです。

見どころは、井之頭五郎を演じる松重豊さんの食べっぷりだけではなく、独特のモノローグ(内的独白)です。ドラマといっても、たいしたドラマはありません。肝心のドラマは、内的独白の中にあるのです。「おお、こう来たか、こういう組み合わせは思いつかなかったなあ。これはありだよ、あり。ありをりはべりいまそがり」などと言いながら、料理との新鮮な出合いにいちいち感動する五郎さんの胃袋の中に、見ている我々もぐいぐいと吸い込まれていくのです。彼の内的独白は、陳腐なグルメ情報番組のような、食感や味についてのこだわりの解説はまったくなく、嫌味がありません。上海料理屋でゴマ団子を食べたときは、中に詰まったゴマを見せてもくれませんでした。白胡麻なのか黒胡麻なのかも教えてくれないのです。とにかく、そういう情報の欠如が、見ている人の想像力と空腹感を大いに刺激するのです。

「孤独のグルメ大晦日スペシャル2017」は、五郎さんが2017年12月30日と31日に松山と広島に出張するという設定です。今回は、後半の広島の部分のみ画像で紹介したいと思います。

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広島での仕事を終えた五郎さんは、突然、強烈な空腹に苛まれます。広島市内を流れる川沿いを歩いていると、五郎さんは川に突き出すようにして建てられた古びた食堂を見つけます。「らーめん・焼肉 みっちゃん」と書かれた赤い看板に惹かれ、思い切って食堂の中に入ります。店の常連客の勧めで、彼は「カーネ」なる牛の脇の肉などを頼み、一人焼肉を堪能します。(この写真は、ロースです。)

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店の女主人をキムラ緑子さん、常連客をダンカンさんが演じています。元ボクシングチャンピオンの竹原慎二さんも特別出演しており、スペシャル番組ということで配役を頑張った感じがします。

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焼肉を堪能した後には、みっちゃん特製の豚骨ラーメン。五郎さんは、食べずに取っておいたおでんの卵をラーメンの中におもむろに投入します。五郎さんは、世の中に氾濫する健康情報なんてまったく気にしません。自分が食べたいように、食べたいだけ、食べるのです。

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ごちそうさまでした。

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店を出た五郎さんに電話。取引先から、いますぐ成田に戻って、仕事を手伝ってほしいと頼まれ、おっとり刀で成田に戻ります。深夜に仕事を終えた五郎さんは、成田山新勝寺の参道を、あふれかえる初詣の参拝客に混じって歩いています。突然、空腹を覚えた蕎麦屋に飛び込みます。すると店に、瀬川瑛子が現れます。彼女を背にして、五郎さんは、年越しそばを二枚平らげるのです。

夜の10時だというのに、腹が減ってしまいました。どうしましょ。

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自分が昭和50年代に生きていたことがわかるCM集 [テレビ]



日本文化センターが、隠し扉や隠し棚のあるタンスを、ひとつひとつ暴露してしまうというCMは面白すぎる。


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ニッセイのおばちゃん [テレビ]



成瀬巳喜男監督の『山の音』(昭和29年)を見ていたら、子連れの出戻り娘を演じている女優さんが非常に気になって、鑑賞途中でストップボタンを押して、ネットで調べてしまった。

その女優さんは、あの「ニッセイのおばちゃん」だったのだ。私のようなおじちゃん世代にはあまりに懐かしい。

中北千枝子は黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』(1947年)ではヒロインを演じているが、たいていの場合は脇役だ。『山の音』の中では、とりわけ重要な役ではないのだが、そんな彼女がなぜか気になってしまう。不思議な魅力を持った女優さんだったのかもしれない。

中北千枝子 〜常に必要とされる名脇役〜 - 花の絵


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浜田雅功のブラックフェイスは時代遅れのミンストレル・ショーだ [テレビ]

ダウンタウン『笑ってはいけない』擁護の嘘! 浜田雅功の黒塗りは米で問題になったミンストレル・ショーと同じだ|LITERA/リテラ

私はこれでも文学者の端くれですから、ミンストレル・ショーのことや黒人差別の歴史についてなど一定の理解はあります。2011年サントリー学芸賞を受賞した大和田俊之『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで 』(講談社選書メチエ、2011年)も読んでいます。また、私の専門としている作家の作品にも言及があるし、私の好きなフレッド・アステアが、彼自身、顔を黒く塗って踊るシーンもあり、腰を抜かしたほどです。

ゆえに、この時代に、顔に炭を塗って、黒人の真似をすることが、欧米の社会にとって、どれだけの衝撃を与えるかよく理解しているつもりです。さすがに、浜田雅功の行為は、知らなかったでは済まされない、懲罰の対象になりうるもので、一切の弁護はできません。「差別」に対する意識の低さは、沖縄差別、在日朝鮮人差別などにも通じる、日本人の嫌らしさです。

人権問題意識の希薄さはテレビ業界に蔓延する暴力にも現れています。不倫の禊として、ベッキーさんが、キックボクシングのキックを受けたそうですが、そういう暴力は先進国のテレビではご法度です。ふつうは、訴訟に発展します。

お笑い業界では、人権というものはないのかもしれませんが、一般社会では、暴力は犯罪です。漫才界では、ツッコミと称して、ボケ役相方の頭を引っ叩くのが、いつしか常套の芸になってしまっていますが、あれはチャンバラトリオのハリセンや、ゆーとぴあのゴムパッチンあたりから来ているのでしょうか。いまだにその悪しき伝統が脈々と受け継がれ、茨城弁漫才のカミナリまで続いています。

いまはもう21世紀なんですから、暴力をテレビで日常的に流すのは直ちにやめてほしいものです。そのような暴力行為をテレビで流すのなら、映画のようにR指定する必要があると思います。

もしかして、これは、うかつに政権批判もできなくなってしまったことに起因するやるかたのない憤懣を業界内部で発散しているんじゃないでしょうね。それって、人間としての劣化、退化ではないですか。




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NHK『100分 de 名著 ソラリス』を見ました。 [テレビ]

名著71 「ソラリス」:100分 de 名著

2017年の12月に放送された「100分 de 名著」4回分をすべて見終わりました。今回の作品は、スタニスワフ・レムの『惑星ソラリス』。これはSFの名作で、私も大学院時代に先輩に読むことを勧められた作品です。結局、いまのいままで読んでいませんので、今年中には必ず読むつもりでいます。

簡単に言うと、この作品は、主人公が抑圧していた記憶とよりによって宇宙で出会ってしまうという作品です。主人公は心理学者のクリス・ケルヴィン。彼は任務でソラリスという惑星の宇宙ステーションに到着する。彼はそこで自殺したはずのかつての恋人ハリーに遭遇してしまう。すでに宇宙ステーションで働いていた同僚によると、ハリーはソラリスの海(意思を持った生命体らしい!)が、クリスの記憶から作り上げた幽体(ファントム)だという。そのファントムをクリスは一旦は殺すのだが、ハリーはふたたび何事もなかったかのように彼の目の前に現れる。クリスは次第にハリーを愛し始めるのだが、最後には辛い別れを経験することになるというストーリーだ。

ハリーという幽体は、AIを組み込んだロボットを思わせ、人間とAIとの関係を先取りしたものにも思えるまた、対極的な愛の関係も興味深い点である。本物のハリーは、クリスに対する嫌がらせと自己主張のために自殺したのだが、反対に、幽体ハリーのほうは自己犠牲のために自殺をする。愛とは何か、そして人間とは何かを考えさせてくれる作品なのである。

今後、AIが人間にとって代わってしまうかもしれないという時代だからこそ、読んでおかねばならない一冊である。