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「教育困難大学」の教員が悩む単位認定の現実 [学問]

「教育困難大学」の教員が悩む単位認定の現実 | 学校・受験 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

教育困難校と呼ばれる出身らしき女子学生が、出席率が高いのにテストで12点しか取れず、単位を認定できなかったという教員のボヤキ。論者は、高校までの成績の付け方と、大学のそれとは違うことを認識していなかった女子学生が悪いという考えらしい。私はその考えに賛成できない。その理由は主に2つある。

一つは、従来の教育困難校の教育の質を改善すれば、大学で高等教育を受けられる可能性が出てくるはずだからだ。小学校から高校までは、基本的に、教員が教えた内容をできるだけ多くしかも正確に覚えたかどうかを確かめるテストが行われる。それはそれで大切なことである。だが、教育困難校では、それができない生徒しかいないことになっているので、その方法では全員不合格になる。したがって、毎回教室の椅子に眠らずに座っていること、さらに課題を忘れずに提出すること(出来は問わない)などで成績をつけざるを得ない。まるで子供の預かり保育施設のようなものになっている。しかし、それは彼らの教育を放棄していると言わざるをえない。彼らの暗記能力は低いけれども、それ以外の能力が眠っているかもしれない。それを見つけて、引き出すことも重要だ。

第二の理由としては、大学の教育の方を改善すれば、教育困難校出身者でも、十分授業を受けることができるはずだからだ。大学の成績評価方法は、エッセイ(レポート)によってつけられるべきだと思う。教員に教わったとおりのことを教わったとおりに機械的に覚えるというのではなく、その知識を活用して、自分で調べ物をし、明確な論旨を持つ文章にまとめる能力を評価すべきだと思う。それを使ってプレゼンするのもいいだろう。そういう知性やコミュニケーション能力を鍛える場が大学という知的空間だと私は考えている。

したがって、上記サイトに書かれているような、教育困難校出身の学生を切り捨てるのではなく、大学では知識の運用能力を問うような訓練をして、それが達成されたかどうかを見る課題を提出させるべきであろう。それができなければ、落とすのもやむを得ない。だが、従来のように、単純に暗記能力ばかり重視する教員のほうこそ問題である。これからは、暗記能力ばかり重視する大学教員のほうが、むしろ困った存在になっていくような気がする。



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英語教員にとっての4月とは [学問]

4月は、教員にとって、学生との間で、これから1年間円滑にコミュニケーションを取るための準備段階に当たる。その段階で、英語教員がすべきことは3つある。

第一に、用語の定義を合わせる必要がある。たとえば、テーマとトピックの違い、パラグラフとエッセイの違いなど一から説明する。パラグラフを段落だと思っている人もいるし、トピックセンテンスがわかっていない人たちがふつうなので、話の組み立て方を丁寧に説明してやらなければならない。

第二に、英文法の基礎を伝授する必要がある。いまどきの学生たちは基礎文法をあまりに疎かにしすぎているので、名詞や動詞の扱い方や、品詞という概念(単語の役柄)がわかっていない。もはや驚くべきことではないが、形容詞と副詞の区別すらつかない学生も多い。日本語同様に英語にも形容動詞があると思っている学生もいる。どのクラスにも、そのレベルの学生がいることを前提に話をしなければいけない。私は毎日のように日本人相手に、いわば、異文化コミュニケーションをしているのである。

第三に、英語の発音の基礎を教えなければいけない。世間一般にはオーラル教育が進んでいるように見えているが、大方の学生は、発音がデタラメである。そんな学生に、英語の発音を最初から教えるのは骨が折れる。もっとも、日本人の英語学習者のほとんどは犬(dog)や猫(cat)すら、正しく発音できていないことに気づいていないのだから、仕方がないかもしれない。

以上の3つを教えるのに、5月半ばまでかかってしまう。その後は、その理解を徹底し、適切に運用するためのトレーニング期間に移行する。英語教員としては、そこでようやく軌道に乗った気分になれる。少しは楽になるのだが、学生たちは教えたことをあっという間に忘れてしまうので、折に触れて同じ話をまた最初から教えなければならない。そういう繰り返しを1年間するのが、教員の仕事だ。それを毎年毎年繰り返す。それをすべての15近くのクラスで繰り返す。体力的にも精神的にもきつい。ノイローゼになるはわかっていただけると思う。そのように大変な作業であるにもかかわらず、その労力は適切に評価されることが全くない。将来への不安も拭えない。毎日毎日、「早く死にたい」と思うのもお分かりいただけると思う。


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教育の見直し [学問]

昨年の今頃、わたしは転職を考えていました。今の仕事を完全に辞めてしまう勇気もなかったので、3月から工具屋でバイトを始めました。次年度からの年収減を少しでも補えればいいと思いました。しかし、すぐさま本業の依頼があって、2週間ほどでバイトは辞めることにしました。

中年になってからのバイトは、かなりストレスフルなもので、わたしには商売の適性はなかったようです。年齢のせいか、物覚えも悪くなり、ますますマルチタスクが苦手になってきていることも原因でしょう。しかし、わたしが知らない世の中の勉強をさせてもらい、有意義な時間を過ごせました。お金や商品や労働時間の管理、商品のディスプレイの仕方、掃除、客対応(万引きの見張り、買ってもらう方法)、社員との人間関係(力関係)など、いろんな側面で学びや気付きがありました。これまでわたしは教育の世界しか知りませんでしたから、商売の世界の考えが非常に新鮮でした。

しかしながら、教育者の観点から、ビジネスの世界での教育には大きな問題があることを強く感じました。わたしが働かせてもらったお店は、なぜか社員教育はありませんでした。現場で複数のことをいっぺんに教えらられ、いきなり実践から入るのです。とにかくやってみてくださいと言われるのです。他の店員の行動を観察する時間は非常に短く、そのやり方の説明も、要領を得ないので、聞いていてもわけがわかりません。

どうしてそういうことをするのかとたずねても、「うちの店ではそういうことになっています」で終わりなのです。とにかく、そのやり方を真似るしかないのです。仕方がないので、親切そうなパートさんに頼って、教えてもらいながら作業をするのです。これは他のパートさんの仕事を邪魔しているだけのようで、非常に気が引けます。誰かの役に立つというより、他人の邪魔をしているだけですから。

教育では、なるべく、「それはそういうものなのです」とは言ってはいけないことになっているとわたしは思っています。わたしの授業では、なぜそういうことになるのか、そうせざるをえないのかを理詰めで考えていくことをします。それをしないと、教育ではなく、「お手」や「待て」のような調教になってしまうからです。覚えろって言ったら、覚えればいいんだ、自分の言うことを聞けば、報酬を与えるという方法は、教育としては前近代的です。

これまでのテストのスタイルも、わたしが考えるような教育とはかけ離れたようなものばかりでした。単語を1つ正しく覚えたら、1点分与えるというようなものです。それは機械的に覚えておけば、点数が取れる、ただの丸暗記なのですが、それを教育と見なしてきた時代はとっくの昔に終わっています。いまは、そんなことはできて当然であってというところから始まり、その上で、話の内容を正確に理解し、それに対する自分の考えを理論的かつ具体的にまとめ(データを使うこともあります)、他人にわかりやすく伝える(発表できる)ようにすることが教育であると考えられるようになってきました(とわたしは思っています)。正解は一つという前提が崩れた今、他者の多様な物の見方に触れ、柔軟な姿勢で最適解を探し続けられる能力を身につけることは、社会にとって有益なことであり、それこそ現代的な意味での教育のはずです。(そういう考えを受けて、私立中学の試験問題も変化してきているようです。)

21世紀は、単純作業ができれば、お金が稼げて、社会に貢献できるという時代ではありません。そういう作業は、機械やロボットに取って代わられつつあります。しかし、そんな古い考えがいまだに商売の世界には残っているのですから、驚きました。正直に申しますと、その会社には将来性はないと感じました。教育を重視しない会社や社会には、将来性はないと思います。もちろん、店員という仕事は、ほんとうの意味での末端の仕事なので、創意工夫は必要ないのかもしれません。大学院の博士後期課程まで行っているわたしのような人間がする仕事ではないのは明らかですが、それにしても、大きな問題があると感じました。

わたしのバイト先には、体系的な従業員教育がないばかりではなく、当然のごとく、従業員が独学するためのマニュアルさえも用意されていませんでした。即戦力になる人を使うだけで、教育にはお金をかけないというようなビジネス手法が、このデフレの20年間に日本中に広がってしまいましたが、そういう企業は、これからは落ちぶれていくのでしょう。現場で教える余裕もないので、社員教育を大学にアウトソーシングする時代が続いてきましたが、そんなものすでに終わっています。というより、始まってもいませんし、始める必要もありません。

少子高齢化による人口減社会、労働者不足に対応するためにも、末端であろうがなかろうが、「教育」のあり方をもう一度見直す必要があると思います。


「エッセイやプレゼンの評価基準ってどういうものなの?」 [学問]

昨夜、だしぬけに、中1の次男が驚くべき質問をし、腰を抜かしました。

「エッセイやプレゼンの評価基準ってどういうものなの?」

これは、驚異的な成長ぶりだと思います。

私が中1の頃にはそんな質問はこれっぽっちも浮かんだことはありませんでした。

せっかくなので、丁寧に解説してあげたら、たいへん興味深そうに聞いてくれました。

そのときに話を再現するのはさすがに骨が折れるので、サルでもわかるようにまとめてみます。

1.メッセージがシンプルであること
2.構造が明確であること
3.話が具体的で、絵が浮かぶこと
4.ひとつの話題に集中してあること(集合写真ではなく、スナップ写真)
5.物語に巻き込まれる感覚があること(自分が映画の主人公になったかのような錯覚)
6.ユーモアがあること
7.意外性のある視点があること
8.情報の価値があること
9.他人に話したくなること
10.読者(聞き手)が何をすべきかが示されていること

おそらく、こういったものがエッセイやプレゼンの一般的な評価基準でしょう。

これらの条件が揃っていれば、非常に記憶に残りやすいというは、こまかい解説をしなくても、わかってもらえると思います。

昨日、学生たちにプレゼンをしてもらった後、1年間の授業のまとめとして同じようことを話しました。しかし、これらよりもはるかに大事なのは、「わかってもらいたいという気持ち」です。これだけは伝えたい、教えたい、わかってもらいたい気持ちさえあれば、あとはどうにかなるものです。

プレゼンでも、「やらされている感」が出てしまっているのは、どうにもアドバイスのしようがありません。

それにしても、次男の恐ろしいくらいの成長ぶりには感心しました。


社会を知らない自称「社会人」のためのリカレント教育 [学問]

日本は「社会人の学び直し」に冷たすぎる | 高城幸司の会社の歩き方 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

「会社員」なる人たちを見ていると、この人たちは本当に物を知らないな、社会を知らないな、教養(自由になるための技であるリベラルアーツ)がないな、と思わざるをえない。一言で言うと、彼らの多くはバカなのだ。

そんなしがない労働者が「会社員」(会社のエグゼクティブ以上の立場の人間!)やら「ビジネスマン」(企業家のこと!)を詐称し、しかも「社会人」などと名乗っている。社会人というのは、そのままでは英語にならない概念である。あえて訳せば、workerかemployeeだ。つまり、ただひたすらこき使われているだけの労働者、または被雇用者である。ちなみに、私もその一員である。

そのくらいの教養すらないバカは、大学教育は無意味だなどと偉そうにほざく傾向が高い。残念ながら、本人に大学が提供する教養を活用する能力がないだけのことであり、つまりは、それこそがバカである証拠なのだ。

そんな愚かしい人々が生ける屍あるいはゾンビのように跳梁跋扈している。悲しいことに、自らの権利を守ろうとしない彼らは、政治を私物化し、権力者の権力を拡大することに腐心する現政権を支える基盤になっている。彼らこそ、大学に戻ってきて、もう一度学びなおすべきだと思う。この国の人々に希望を与え、この国を暮らしやすい場所にするためには、社会を知らない自称「社会人」こそが学び直す必要がある。

文学と政治 [学問]

なぜテレビを見ていると"バカ"になるのか | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online

宇野常寛さんのロングインタビューが面白い。ざっと目を通して、感じたことを書いておく。

たしかに当時の僕は、テレビ番組などで「僕はノンポリのオタクなので――」というフレーズを使っていました。それは、政治家や学者の言葉を混ぜっかえしたり、「そもそも論」に持っていって中和したりするような戦い方をしていたからなんですよね。「僕、素人なんでわからないんですけど、それってそもそもこういうことですか?」って問題設定自体を問い直したかったんですよ。相手の土俵に乗らないためのテクニックですね。


『スッキリ』が始まって数カ月たったときに、自分なりの手応えは感じていました。あそこで僕が言っていたことって、基本的にはたったひとつ、「こんなものを見ていたらお前たちはバカになる」ということです。週に一度、悪目立ちをした人や失敗した人を「叩いてOK」なものとして提示して、視聴者を「世間のまともな側」と思わせて安心させる。そんなのばっかりなんですよ。


『ニッポンのジレンマ』のころに僕がやっていたことは、政治の言葉を使う政治家や学者より、サブカルチャーの側から文学の言葉を使う僕のほうがよほど政治的である、という逆説的な状況を見せることだったんですよ。


昔から、文学系の人たちは、政治の専門家ではない立場から、政治的なことを語る傾向が強い。まさに私がそう。ノンポリであることが、逆説的に政治的になってしまうのだ。

大学で政治や法律や経済を学んできたような人たちは、すでに出来上がっている地図の上に、政治現象を配置し、分類し、そこで終わってしまう。生物学者のように、敵味方をわかりやすく分類し、「スッキリ」しようとする。だからこそ、彼らの多くは瑣末的な政局こそが政治だと思いこんでいる。

また、大学にも行っていないし、行っても何も学んだことがない人たちは、「週に一度、悪目立ちをした人や失敗した人」を叩いて、日頃の不満を解消し、「スッキリ」する。いわゆる「いじめの構造」である。極端な場合、マスコミが扇動し、視聴者が一丸となって、一人の弱者を徹底的に憎しむのである。彼らは堕落した倫理感を「正義」だと思いこんでいるので、自分たちがしていることが「ヘイトクライム」に接近していることすら気づかないことが多い。宇野常寛さんはおそらくそういう人間たちの愚かさを指摘しているのだろう。

文学研究者は、「そもそも」そういう人間の根源的な部分に関心を抱く傾向が強く、社会的な常識、世俗的な倫理観、自分の思い込みを切り離し、ありのままにものごとを捉えようとする禅僧のように、事象の中心核を抉(えぐ)り出そうとする。そもそもそういう中心核を抉り出す試みは成功しない。だからこそ、いつもスッキリしない。そういうどっちつかずな態度は、大衆相手のマスコミにはまったく受けない。きれいさっぱり、「犯人はあいつだ」と決めてくれたほうが、毎日忙しく暮らしている人にとっては、頭を使わなくていいので、一つ仕事が減って、楽になるのだろう。

しかし、マスコミの垂れ流すそんな情報はすべてゴミである。小さなコップの中でガヤガヤと騒ぎ立てている中でいつのまにか出来上がっただけの声の大きな価値観を、社会正義だと信じてしまうような小市民たちが独善的な正義を振りかざす社会が続く限り、日本には未来はないと思う。スッキリしないことに耐えろと言い続けてきた文学の復権がいまこそ必要なのではないか。


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師匠と弟子 [学問]

私は身過ぎ世過ぎに教員をしている。自分の子供の前では父親として振る舞うが、学校へ行けば教師を演じるというわけだ。教室の中で、教員として振る舞う私は、日常の私とは全く違う。言葉遣いも、話す内容も、態度も、身振り手振りも、表情も、目つきも何もかもまったく違う。私は教室では「教員プレイ」をしているだけなのだ。だから、キャンパスの外に出ると、私は別人になる。どこからどう見ても、ただの顔の怖い、不機嫌そうなオジサンでしかない。まさに多重人格である。もちろん、そういう多重人格者は私だけではないだろう。

一方、学生は、教室の中で教員相手に「学生プレイ」をする。放課後、アルバイトで店員をしているならば、店では「店員プレイ」をしているのと同じことだ。客の前では、友達と話しているときとは別人になっているはずだし、そうなっていなければならない。客は、その学生を店員さんとして認識し、呼びかけるときも「学生さん」とは言わず、「店員さん」と言う。

同様に、私は教室の中では「先生」であり、私は「先生」と呼ばれなければならない。なぜなら、教室の中で、私がどこかの顔の怖い客として振る舞えば、学生にとっては、「先生」ではなくなり、私は私から何かを学ぶ対象ではなくなり、単に恐怖を与える存在になってしまうからだ。

私淑する哲学者の内田樹先生は、『先生はえらい』という小さな本を書いている。その中で先生が述べられていることは、いま私が語っていることとほぼ同じである。

10年ほど前からだと思うが、学生にレポートの提出を命じると、レポート用紙の教員名の記入欄に私を差して「○○さん」と書く輩が出没するようになった。100人に1人くらいいる気がする。礼節を重んじる人間ならば、本来、そこは、「○○先生」と書くものだ。私は学生時代から、それを習慣としてきたので、そういう不躾な態度はまったく理解できない。機嫌が悪いときにそういう学生を見つけた場合、私はややキレ気味に説教をすることがある。そういうことを言ってやる教師がいなければ、彼らはいつまでも態度を改めないと思うからだ。そうすると、馬鹿野郎な学生たちは恐れをなして、みな一様に「○○先生」と書き始める。空々しい。

なぜ学生たちは教室の中で私を「先生」と呼ばなければいけないのか。それは私が威張りたいからではない。その理路を理解していただけない方には、喩え話が必要かもしれない。もしあなたが空手か何かの武術の師範で道場を開いていたとする。そこに見知らぬ人物がやって来て、「○○さん、私に空手を教えてください」とあなたに気軽に頼んだとする。先生(師匠)であるあなたは喜んでその人に道場の敷居を跨がせてやるだろうか。もしその道場主が私だったら、いっさい表情を変えず、「いいですよ。片手を貸してください」と言って、指の2、3本をへし折ってやり、「今日のところは、これでお引き取りください」と言ってやるはずだ。それはなぜか。まず、その人の態度は、他人にものを教えてもらう態度ではなかったからだ。誰かにものを教えてもらいたければ、それ相応の態度が必要だ。そういう態度が身についていないこと自体、何を教えてやっても意味がない。そんな奴に私の貴重な時間とエネルギーを注ぐ理由は見つからない。いくら金を積まれても、教える価値がない。彼らには数多くの言葉を消費しても、それを理解するための素地がないのは明らかだ。彼らのキャンバスはすでに真っ黒に塗られており、それ以上どんな色を塗り重ねようとしても、絵の具はすべて弾き返されてしまう。だから、文字通り、空手の技をかけて、そいつの体を破壊して、体でもって大切なことを教えてやるのである。もしそいつが態度を改めないまま再びやって来たときには、二度と空手が習えないような状態に身も心もバキバキと破壊してやることになるだろう。

弟子が師匠からものを教わるのなら、弟子らしく振る舞わねばならない。弟子らしく振る舞うことそのものが、ものを学ぶということなのだ。お金を払ってやるから、俺に何か面白いものや役に立つことを教えろという横柄な態度は、弟子の態度ではなく、客の態度だ。客にはいかなる技であろうとも教えるはずがない。教育というのは、本来そういうものである。商売(ビジネス)やサービスとは次元が違うものなのだ。世の中には、教育とビジネスを取り違えているバカと、教育をビジネスにしてお金儲けをしようとするバカしかいないらしいから、その条理がわからないのだろう。

しつこいようだが、要するに、私が言いたいのはこういうことだ。私を「○○先生」ではなく、「○○さん」などと書く人間には、ものを教えてやる必要がない。なぜなら、それはものを教えてもらう態度ではないからだ。弟子としての振る舞い方をしていれば、たとえ教師がバカであっても、弟子は自ら勝手に何かを学ぶのである。教師が言ってもいないことを、弟子はひとりで勝手に学んでいくのである。それが弟子というものであり、それこそが学びなのだ。知識を一定の金額で買うような「等価交換システム」は、「教育」には存在しないのだ。

英語では、弟子のことをdiscipleと言う。そして、学校の教科、訓練、躾(しつけ)のことを、disciplineという。教科、訓練、躾もすべて「弟子が学ぶこと」「弟子としてすべきこと」という意味だ。弟子が身につけるべきことは、まず弟子としての態度を身につけること。それこそが、誰かから何かを学ぶ素地になり、それを作ることが教育の根源的な目的なのだ。それがあって初めて、educationが成立する。educationというのは、弟子の能力を外に引き出すことであり、弟子を外の世界に引きずり出すことだ。教育を等価交換システムだと思いこんでいる人たちは、educateされる可能性はないのである。

近頃、ネットの掲示板やツイッターを見ていると、他人を馬鹿にする人間がますます増えているように思える。学生の中にも、傲慢で(arrogant)、生意気で(impertinent)、厚かましくて(impudent)、不敬で(disrespectful)、思慮分別に欠けた(imprudent)人間が増えてきたのかもしれない。だとしたら、教育(education)はもう終わりである。せいぜい、学校でできるのは、learning程度になる。learnは語源的にはドイツ語で拾い集めることだから、断片的な知識を拾い集めてコレクションするだけという意味である。その知識の多くはゴミである。ゴミ拾いでもした方がはるかにマシではないか。そんな「ゴミ拾いロボット」の学生には教育はできないのだから、大学も看板を下ろして、そろそろ店じまいした方がいい。これからの「学生さん」は、「AIスピーカー」にでも、正しい言葉遣いでも教えてもらえばいいじゃないか。馬鹿馬鹿しい。


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日本の「大学教育は生き延びられ」ない! [学問]

大学教育は生き延びられるのか? (内田樹の研究室)

先進国の中で日本の大学教育のアウトカムが最低レベルにまで下がったという事実については「全部大学の責任」であり、教育行政には何の瑕疵もないという態度を貫いている。悪いのは文科省ではなくて大学であるわけですから、失敗の原因を探求するのも、対応策を講じるのも全部大学の自己責任であるという話になっている。ですから、文科省の仕事はそういう「できの悪い大学に罰を与える」ことに限定されている。そうやって毎年助成金を削り、学長に権限を集中させて教授会自治を否定し、大学の自由裁量権を奪い、自己評価自己点検作業を強要し、次から次への大学への課題を課して、研究教育のための時間を奪っておいて、その上で「どうして研究教育がうまくゆかないのか」について会議を開き、山のような報告書を書くことを義務づけている。


日本の大学教育が、もうすでに救いようのない状態になっているという認識を持っている人たちの数はあまりにも少ない。現役の大学生の多くも、世間で言うほど、日本の大学は悪くないと信じ切っている。それは教員たちが自分たちの持てるリソースを教育の面に最大限傾注したためであるが、その反動として研究の面であまりに諸外国に遅れてしまった。これはもう取り返しがつかない。日本の大学教員は、実のところ、AIに任せてもいいような仕事ばかりさせられているのである。

こうなった原因はさまざままだ。考えられる要因としては、新自由主義的な市場原理や競争原理の導入とか、自己責任論の台頭とか、教育が金儲けの場になってしまったこととか、少子高齢化は止められないことがわかりきったことであるにもかからわず、大学設置基準を緩めて、地方にボコボコと大学を作ることを文科省と時の政権が許可してしまったこととか、「グローバル化」への対応を急ぐあまり、より一層ドメスティックな教育に陥ってしまったこと(TOEICなど)がすぐに挙げられるだろう。

元来、大学という場所は、アカデミックな世界であった。アカデミズムの世界は、民主主義的なものである。ある考えに対して、誰でも反論を加えることが許されている場である。その反論にまた誰かが反論を加える。そういうやりとりを通して、思想に深みが与えられていく。それが研究である。そういう議論の場としての大学の役割は消えつつある。やっていることは高校までの教育と同じだ。正解はひとつしかないはずで、その正解を覚えることが重視される。その「正解」が本当に正しいのかどうかは考えることすらない。「正解」とされているものを正解と定める評価基準が、本当に正解なのかどうかを問うようなことすら考えない。そんなふうに批判精神のない人たちの集まりが今の大学なのである。批判をすれば、面倒くさい奴などと言われることもある。国や企業が求める研究を行い、国や企業が求める結果を出すことで、研究者は飯を食っている。お金にならないは、研究の意味がないと思い込まされているのである。批判精神(Critical Thinking)とは、民主主義の重要な基盤であり、それこそが社会を進歩させる駆動力になるものだ。その駆動力を失った日本の大学教育の行く末は、もちろん死しかない。

現在、日本の大学におけるもっとも重要な課題は、大学という「ビジネス」をどうやって終わらせるかである。言い換えれば、どうやって、外国(欧米はもとより、中国やインドなども含む)にアウトソースするかである。知的にも、財政的にも、貧困化する日本の問題は、あと5年もしないうちに、明確に意識されるようになるだろう。(そのとき、大学のピラミッドの最下層にいる私はどうすればいいのか。やはり「羊飼い」になるしかないのだろうか。)


余談だが、いま、森友学園や加計学園の問題で、政治家が悪党で、文科省(の一部の役人)が正義の味方のような報道のされ方がある。私自身は非常に不満に思っている。文科省が、日本の教育をいかにだめにしてきたか、しっかり時間をかけて報道してほしいものだ。それによって、産業界が返り血を浴び、テレビ局の広告費が減ることは間違いない。だが、真実を伝えることがジャーナリズムの役目なら、文科省の根本的な問題を大衆に示すことのほうが、「もり・かけ」問題なんかより遥かに優先順位が高いと思う。





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イギリス料理が「まずい」原因? [学問]

イギリス料理が「まずい」原因 背景には社会と経済の変化があった? - ライブドアニュース

話が非常にわかりにくい。特に、因果関係を論じる文章は、整理整頓された構成が重要だし、事実(客観)と推測・印象(主観)の峻別がないと、読んでいる方は頭を抱えてしまう。

論者の小野塚知二氏は、「食を客観的に分析するために、筆者は、食材の多様性、食材の在地性・季節性、調理方法の多様性という3つの指標を設定した」と述べたあと、「この3つの指標だけで食を論じ尽くせるわけではない」と付け足している。論者が告白しているように、これらの指標だけでは、確かに客観的に「まずい」と断定するのは難しい。また、まずくなった理由として、食材の多様性を失ったことにも一因があるとしているが、それだけではイギリス料理がまずくなったという因果関係は成立しない。

小野塚氏はイギリスの料理がまずくなった原因を「農業革命」(産業革命に先立って [あるいは同時進行して]、農業生産性を向上させた変革)により、資本主義的農場経営が導入されると、村も祭りも消滅し、下層階級が豊かな食と音楽・舞踏を経験し、その能力を涵養する機会も失われた」と述べているが、これまた、村や祭りが消滅することと、食がまずくなる因果関係を明確にできていない。

いずれにせよ、この論考は、「まずい理由として、美食を欲しない国民性である、ピューリタンの影響で食の楽しみが罪悪視された、あるいは、気候が冷涼で食が単調になるなどの俗説はあるが、いずれも、学問的には支持しがたい怪しげな説である」という論者自身のイントロダクションを覆す説得力のある論証になっているようには思えない。うちの妻の料理がなぜまずいのか。それは世の中の変化によって共同体が崩壊したからだという主張が一般性を持たないのと同じことだ。これこそ、「まずい」論文なのではないか。

しかし、以下のような時代背景を補って考えれば、小野塚知二氏の主張は多少わかりやすくなるかもしれない。

イギリスで18世紀に起きた産業革命以前、労働者の多くは農業従事者であった。彼らにとって、ディナーとは、昼ごはんのことだった。午前中たっぷり野良仕事をして、お腹をすかせて家に戻る。そしておいしい昼飯をたっぷりたべて、ちょっと休憩し(シエスタ!)、夕方、畑に戻る。夜ご飯は、サパーと言って、軽い食事だった。

ところが、産業革命によって、農家のお父さんたちは、工場で働くようになる。彼らは昼休みに、家に帰ってディナーを食べてくることができなくなる。仕方がないので、一日の中で唯一、家族団らんを楽しめる豪勢が食事は、夕食にずれ込むことになる。それが現在の夕食、つまりディナーだ。その結果、サパーという言葉は消えてしまった。一方、昼ごはんに当たる言葉がない。貴族たちが昼近くになってようやく起きてきて食べる食事をランチョンと言ったのだが、その言葉をもじったランチを昼ごはんに当てはめるようになった。貴族にとっての断食明けの朝食(Breakfast)であるランチョンだから、確かに豪勢なものではない。いずれにせよ、生活の中心であった昼ごはんとしてのディナーが、夜に追いやられてしまったことと並行して、人々が食への関心を薄れさせるという力が働いていたのではないだろうか。

こういう産業構造の変化に伴う、食を巡る環境の変化が、イギリス人の食への関心の現象につながったという可能性は否定できない。ただし、産業革命は、フランスでも、(時代は違えども)日本や中国でも起きている。にもかかわらず、食への関心は失われていない。やはり、厳密な因果関係を特定するのは、事程左様に困難だ。

これは私の主観でしかないが、食に興味がない人というのは、概して、他のことに対してより強い興味・関心を持ち、食にまで時間やお金を避けないという人が多いように思える。労働生産性の向上を資本家に求められ、つねに時間に追い立てられている労働者は、とりあえず、口に入れられるものを入れておいて、寝食を忘れて、仕事をすることが善であると調教されている。食べることに喜びを見出しているような状態では、まだまだ一人前とはいえない、子供なんだよという社会的なプレッシャーがかかっているような気がする。食にこだわる暇があるのなら、仕事をしろというわけだ。

概して、会社に就職して自分でお金を稼ぎたいと望む女性の多くが、「私は家事が苦手なの。料理は面倒くさい」と言うセリフを耳にタコができるくらい聞かされてきた。彼女たちの主張の背景には、社会的に尊敬される立派な人間は、家事などはしないという意識が潜んでいるように思われる。それがフィクションであることすら気づけないような環境が構築されているらしい。

村や祭りや共同体の崩壊という原因は別として、イギリスでは、食にこだわりたくても、こだわっていられないような社会的事情があるのではないか。それが「日の沈まぬ国」である大英帝国の樹立にも繋がった要因でもあろうし、同時に食文化の衰退をもたらした理由でもあろう。それは一体なんだろうか。お金と時間へのこだわりだけではない気がする。



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行動経済学と文学 [学問]

「ノーベル賞の知恵」でお金とうまく付き合う方法 | 要約の達人 from flier | ダイヤモンド・オンライン

このサイトは、行動経済学の解説本の紹介である。行動経済学とは経済学の一分野であり、人間の不合理な思考や行動に焦点を当てた研究だ。人はえてして道理に合わない不可解な行動をする。従来の経済学では、一顧だにされなかった分野だけに、パラダイムを大きくシフトする学問に思える。

ここで紹介されている内容は基本的なことばかりで、私にとってはみな知っている話ばかりだ。NHKの番組『オイコノミア』を、又吉直樹さんが芥川賞を受賞する前まで毎回欠かさず見ていたおかげだろう。ちなみに、今は見ていない。放送しているのかさえ知らない。

人間というものは、不合理な行動をするものだという考えは非常に魅力的である。合理的思考が重要であることは言わずもがななのだが、合理的思考だけでは、人間そのものを把握することはできないという考えは、すこぶる文学的だからだ。

行動経済学への関心の高まりが、文学の復権につながると良いのだが。