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アーモンドミルクなど植物性ミルクで低身長に? [学問]

CNN.co.jp : アーモンドミルクなど植物性ミルクで低身長に? カナダ研究 - (1/2)

この文章の結末にある通り、信憑性の低い調査と結論づけざるを得ない。人間は、牛乳だけで生きているわけではないので、他の要因も考慮せざるを得ない。こんなでたらめな研究をしているような人たちは、牛乳屋の回し者だと思われてしまうだろう。

また、身長の高さと健康には密接な因果関係があることはわかっていないし、身長が高いことが善で、低いことが悪であるという偏見を広めることにつながれば、差別を促す結果になる。

いずれにしても、こんな研究をしている事自体、愚の骨頂である。


決めつけないでほしいね [学問]

顔を見ればその人の9割わかる!?「輪郭」から分かる性格と傾向 | citrus(シトラス)

顔で性格を判断かのような「エセ科学」を撒き散らしておいて、「筆者は差別しているわけではない」などと主張するこのブログの書き手は、自分の罪をまったく理解していない。非常に困った人だと思う。


自民党政権と官僚を恨む。 [学問]

一橋大講師の年収額に衝撃 日本と海外の大学で給与に差 - ライブドアニュース

国立大学だと専任教員の年収は600〜800万円。私立だと、学校にもよりますが、最高で1200万円くらいでしょう。非常勤講師なんて、国立の専任の半分程度の年収で非人間的な生活を送っています。率直に言って、建設現場の土木作業員よりも安月給かもしれません。

実のところ、日本の大学のコアの部分をを支えているのはそんな低賃金の非常勤講師です。このまま非常勤講師たちが低賃金で雇用され続ければ、ますます日本の教育が疲弊していくのは目に見えています。結果、大学の教育力が弱まり、長期的には、国家の知力が衰え、政治的にも精神的にも貧しい社会になっていくでしょう。

頭のいい人はさっさと将来性のない日本に見切りをつけて、海外に移住したほうがいいかもしれません。結果、日本に残るのは、愛国者ヅラしたネトウヨおじさんと貧乏老人だけになるのでしょう。私の目には気持ちの悪い社会の姿しか目に浮かびません。

こういう社会にした自民党政権と官僚たちを私は徹底的に恨みます。


若い教師と老齢な教師の決定的な違い [学問]

若い教師は、自分が知っていることをすべて教えようとするところがある。それは情熱的に見えるのだが、教育的な効果はきわめて薄い。

一方、老齢な教師は情熱がなく、つねに脱力しているように見える。重要なことを教えるとき以外は、教え子が自分の頭で考えて、自分で答えを発見することを見守っているからこそ、そう見えてしまうのだ。自分が知っていることをすべて教えるにはあまりに時間が足りないし、教えずに自分で学ばせる時間的な余裕を与えるほうが教育的効果が高いということを長年教育に当たってきた教師は経験的に知っているのである。

私が3月上旬にバイトで店員をした時、私の指南役になってくれた若手社員は、私を促成栽培しようとし、自分が知っていることは何でも教えようとしてくれた。その教え方が、体系的な指導法からは程遠く、その場その場の思いつきだけで行われ、かつ、言っていることが前回言っていたことと矛盾することが多いのである。しかも、何かをすれば、必ず否定から入るので、私が自分の頭で考えて行動したことをすべて否定されるので、やる気も失われてしまう。「そんなに文句をいうのなら、全部自分でやればいいじゃないか、アホらしい」と、そんなふうに思ったことが何度もあった。結局、現場に慣れることができないまま、彼の指導法の結果、頭がパンクし、自信を喪失してしまい、辞表を提出したのである。

教師は何でも教えればいいわけではないということの正しさを改めて思い知ることができた。

言語運用能力を高めるには [学問]

家庭内の会話で、国語力を上げる2つの方法 | ぐんぐん伸びる子は何が違うのか? | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

「国語力」という言い方が一般的なようだが、国家が定めた公用語である「国語」である必要はないので、私ならば、それをもっと一般化して「言語運用能力」と表現したい。

「言語運用能力」を向上させるのに重要なのは、どう語れば効果的なのかを意識することだ。

語り方は(1)物語風に語る方法と(2)論説文のように論証する方法の2つに分けられる。プレゼンもそのいずれかに収まる。

ふだんの会話でも、漫才でも、身の回りにある言語表現の形式を意識してみると、言語運用能力が優れていると評価できる人の特徴は明らかである。とにかく面白くて、わかりやすくて、無駄がないのである。そして眠くならない。

そんな言語運用能力を身につけるためには、優れた作品を読んだり聞いたりして、その構造を分析し、自分でまねて書いてみたり、話したみたりするしかない。

子供に身につけさせる方法としては、物事を語ったり、説明したり、描写する順番を誘導してやることだろう。私は自分の子供にも、学生にもそうしている。

言語運用能力を高めれば、副次的効果として、国語や外国語の試験の成績が向上する。語り手の意図や誘導が手に取るように見えてしまうからだ。しかし、「卵が先か、鶏が先か」になってしまうが、試験で高いスコアを取ることよりも、話の面白い人になることを優先した方がいいと個人的には思う。



センター試験の英語の問題を使って、物事の前提の話を息子にしてみた。 [学問]

今年のセンター試験の英語の問題を使って、先週から週1で息子に英語を教えている。

今日は会話文(議論)と物語のところを3時間かけて片付けた。

一般に、試験問題を教えるときは、問題の解き方を教える教師が多いと思う。

しかし、生徒はそんなことはほとんど期待してないのだと私は思う。

抽象的なことを言って申し訳ないが、大事なことは、物事の前提をつかむことである。

本来、教師が生徒に教えるべきことは、ある物事の前提は何かを理解させることだと思う。

ある人がある問題を理解できないとする。

その問題が解けないというのは、その問題を解くための前提がわからないからである。

それが何を前提としているのかを正しく教えてくれる人が身近にいればいいが、たいていの場合はいないので、自分で探さなければならない。

それは刑事が犯人を見つけるために、丹念にいろんな条件をシラミ潰しにしていく作業に似ている。

シラミ潰しにしていくうちに、ある日ふと事件の全体像が見えてしまう瞬間が訪れる。

それは失われたパズルのピースが見つかるような瞬間である。

しかし、失われたパズルは、全体像がわからないと、どれが失われていたピースなのかわからないものだる。

この場合の失われたピースこそが前提なのだ。

それはわかってしまえば、なんでもないことなのだが、なぜそんな簡単なことがわからなかったのか、という類のものである。

簡単な例として、物語について考えたい。

物語というのは、英語ではstoryである。

storyとは階層のことだから、物語というのは、ある出来事をきっかけに主人公が変化し、成長し、上の階層に行くようにできているものだ。

だから、ふつうの物語は、主人公の考え方や態度が、ある事件が起きる前と起きた後では大きく変わっているのである。

センター試験の物語の文章もまさにその一般的な構造を辿っている。

それが物語を読む時の前提の一つである。

あまりに当たり前のことであるが、ふだんまったく意識できていない人が多いと思う。

また、別の前提もある。

それは物語そのものの読み方に関わる前提である。

一般に、人はストーリーを追いかけることだけに集中してしまいがちだが、物語を読むポイントを理解しておくことを忘れてはいけない。

それは、語り手の視点、描写の方法、説明の方法、読者の感情移入の誘い方、具体と抽象の往復、読者を焦らす方法、オチを説明せずに(最後まで言わずに)読者に悟らせる方法などである。

書き手(語り手)による工夫のポイントをきちんと整理して理解するプロセスを踏んでいれば、いずれ文章を正しく読めるようになっていくはずである。

また、そういう読み方ができていると、問題作成者がどこをどのように質問してくるか予想がつくようになる。

これらの前提を理解した上で、焦らずに丁寧に読む作業を繰り返していれば、おのずと物語を正確に、かつ速く読めるようになっていき、結果的にセンター試験の正解率が上がるのである。

息子が通っている高校は中途半端な進学校で、できるだけ偏差値の高い大学に進学させることで業績をアピールするために、やたらと難しい大学入試問題を生徒に解かせている。

結果、多くの生徒は自信を失い、焦燥感に囚われてしまっている。

いたずらに難しい問題を解けば、難しい問題が解けると考えるのは、因果関係がわかっていない残念な人である。

難しい応用問題にも対応できる学力がつけるためには、生徒たちに前提をきちんと理解させられるような腰の座った教育を施すことが重要なのだ。

何のために入試問題を解けなければいけないのかというのもまた前提である。

入試問題の前提である。

センター試験は基本的には国立大学に入れる能力を見るテストである。

国立大学は、本来、国のリーダーを養成する機関である。

リーダーは、全体を俯瞰したり、全体を細分化して、整理整頓して理解できる能力も必要だ。

しかし、それだけでは、不十分である。

論理とともに情緒を使って集団を導く能力も必要だ。

つまり、論理的に物事を考えることができるだけではなく、同時に情緒の面でも優れた能力を有し、他者の気持ちを理解でき、かつ、他者の心を変えたり、操作することもできないといけないというわけである。

そのための論説文であり、物語文なのだ。

だから、センター試験の問題の正解率が高さは、そ国のリーダーになる資格の証明になっているのである。

今日は、そんな前提の話を息子にしてみた。

高校の先生からはそんな話を聞いたことがないという。

もう一つ、前提がある。

何のための受験勉強なのかと質問すると、たいていの親や教師は、いい大学に入るためだと答える。

なぜいい大学に入るべきかと聞けば、いい会社に入って、いい給料をもらうためという説明する。

なぜいい給料をもらわないといけないのか、と質問すると、いい生活をするためだという答えが返ってくる。

では、なぜいい生活をしなければならないのか、という具合に袋小路に入ってしまうのである。

だから、私が先に説明したように、「国のリーダーになるため」がベストな答えなのだ。

国のリーダーではなくても、会社や学校のリーダーでもいい。

何らかの集団を正しい方向に導く能力を持った人間を育て、集団の人々を幸福にするために、勉強をしているのである。

他人を幸福にすることで、自分も幸福になり、自分を幸福にすることで、他人も幸福になるのである。

こういうのは、教えてもらえそうでいて、案外なかなか教えてもらえない前提である。


大学はすでに死んでいる [学問]

予備校の「裏メニュー」にすがる悲しい大学:日経ビジネスオンライン

松浦龍夫さんの仰る通りである。結論から言えば、大学は(教育のアウトソーシングによって)終わってしまったのである。私は大学で末端の仕事をしているから、すでに大学が死んでいることをよく理解しているつもりである。

その根本的な原因は、お金がないことだ。

教育費をできるだけ抑制しようとする国の方針によって大学助成金が減らされ、そのせいで、大学が文科省にすがりつくしかなくなり、それをよいことに、文科省の官僚が大学の自治権を完全に奪い取り、自分たちの天下りの場に変えてしまったことが今まさに問題になっている。

それよりも深刻なのは、大学の意思決定システムが文科省の官僚をトップとする上意下達のシステムに変わってしまい、下々の者は学生の方ではなく、文科省のお気に召すように動くようになってしまったことである。残念ながら、これを機に、文科省主導による改悪をすべて反故にし、かつてのような大学の自治を取り戻すことからしか、大学の再生はないかもしれない。そもそもお金がないだけではなく、子供も減ってきているのだから、実のところ、もはやどんな努力をしても大学に未来はないのである。

実は、大学で教えられているようなことは、自分で学べることばかりである。究極的には、大学で教えていることは、自分の頭や体を使って学んで、その成果を誰かと議論したり、実践してみるという能力を鍛えることだけだからだ。だからこそ、誰かのもとで少し働いてノウハウを身につけたら、自分の能力を活かせるようにさっさと起業してしまうのも良いことだと思う。

かつての大学は国家のリーダーの養成所だった。しかし、いまは誰もが大学に行く時代になったために、企業にとって都合の良い奴隷を作る工場になってしまっている。その意味でも、大学の4年間はほぼ不必要なのである。


効率優先の19世紀型画一化教育に引き戻されつつある現実に呆れる。 [学問]

In the age of robots, our schools are teaching children to be redundant | George Monbiot | Opinion | The Guardian

日本でも、いや日本では特にかもしれないが、子どもたちを画一化する教育がいまだに施されている。子どもたちは国家が定めた一定の水準を達成することが求められ、教員はその基準を満たすための管理教育に精を出す。学校はまるで工業製品を生産する向上のような場所になっている。もともとこのような効率至上主義的な近代教育は、じっと椅子に座って黙々と同じ単純作業を繰り返せる工場労働者を育てるために最適化されたものである。21世紀の今でも、この19世紀的な考え方が教育から消えていない。しかし、生徒も教師はすでにこのトップダウン型の教育にほとほとうんざりさせられているのだ。率直に言って、TOEICのスコアなんかどうでもいいのである。

世界各地で、21世紀の労働者に合うような新たな教育の実験が行われ出している。生徒たち自身にカリキュラムを決めてもらったり、iPadを使って自分の好奇心の赴くままにさまざまなことを研究してもらったり、また他の生徒たちとコラボレーションすることによって(従来の教室ではカンニングになったもの)さまざまな知識を身につけていったり、さらには教室の外(アウトドア)へ完全に出てしまって、そこで学ぶという青空教室すらあるのだ。

今後ますますロボット技術が進歩していくことは間違いない。人間が工場労働者的なロボットと唯一差別化できる部分は、redundantな面だけだ。それは、効率性の面から考えたら、無駄でしかない余剰のことだ。しかし、それが(人類の進歩にとって)無駄で余計なのかどうか本当のところはわからない。しかし、ただひとつ確かなのは、ロボットと人間の最大の違いは、その無駄に対する姿勢のみであるということだ。

私はこれまで無駄を重んじる21世紀型の教育をしてきたつもりだが、効率優先の19世紀型の画一化教育に引き戻されつつある現実に呆れているところである。


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読解力の上げ方 [学問]

読解力が危ない(1)~問題文が理解できない : 教育 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

「経済協力開発機構(OECD)が昨年12月に公表した国際学力調査の結果では、15歳の読解力が4位から8位に順位を下げた」ことを受けての記事。(この記事は、誰が誰に向けて書いた記事なのかよくわからない。ちなみに、いま私は子供を持つ親御さんを対象としてこの文章を書いているつもり。)

読解力に関する相対的な地位が落ちたとしても、絶対的に読解力が落ちたと結論付けるのは間違いだ。他の国の子供達の読解力が上がっても、日本の子どもたちの読解力のランクが下ることもあるのだから。そのようなことを理解できていないのなら、この記事を書いている人のほうこそ読解力がない証拠かもしれない。

そんな冗談はさておき、実のところ、子どもたちの読解力が落ちているのかもしれないという実感は、大学生にある程度のまとまりのある英文の内容を説明させているときにもある。しかしながら、昔から学生たちの読解力が低かったのか、最近下がったのか比較のしようがない。なぜなら、昔と今では教え方が変わったからだ。昔は、英文を一文一文日本語に訳すことで内容を理解するという授業が基本的なスタイルだったので、読解力もへったくれもなかった。辞書や教員の助けを得て、一緒に読んでいくだけで自然に読解力が上がったのだ。いまはスタイルが変わり、最初から読解力を重視するようになった。「日本語に訳すな」と上から言われているので、一文ずつ訳すことはなく、英文を音読した後、「このパラグラフ(段落)はどういうことを言っているのか」と私が質問し、学生が答えるという形を採用している。この変化はここ数年の間に起きたものだ。したがって、比較のしようがなく、この記事のように、短文でコミュニケーションをするSNSによって読解力が落ちたと短絡的に結論付けることはできない。

確かに、自分の学生たちを見ていると、前期中は読解力は壊滅的に低い。しかし、後期になると、要約もできるようになってくるし、内容や文章の形式などについて気軽にコメントもしてくれるようになる。私がそう鍛えているからなのだけれど、彼らの読解力は確実に向上する。

読解力を向上させる方法としては、パラグラフの要約トレーニングだけが有効なわけではない。実際に、教科書の文章をお手本に、同じテーマや構造で自分なりに文章を書いて、他の学生たちの前でプレゼンしてもらい、他人の反応を自分で確認し、自分で自分の悪いところを見つけて、自分で改善するように努力してもらっている。どうすれば、聞き手や読み手に伝わるのかを、考えながら原稿を書いて発表し、その経験を下に、教科書の文章を読み、書き手の工夫のポイントを理解してもらうのだ。時間はかかるが、1年もすると見違えるような発表をしてくれる学生も多く、12月頃になると、涙が出るほど感動させてくれる学生がいる。彼らの読解力は、発表のうまさと比例して、向上する。

とにかく、一様にSNSばかりを犯人扱いし、新聞を読みなさいなどと、新聞社の我田引水の洗脳記事を書くのはもうやめてほしい気がするなあ、個人的には。新聞社にとっては、新聞以外のメディアは何もかも敵なのだろうか。

小3から英語、国家を意識させる内容も 学習指導要領案:朝日新聞デジタル

国家を意識させる内容って、どんなことなのかと思って読んでみたら、竹島や尖閣諸島や北方領土のことなんだね。申し訳ありませんが、それって国家の問題ではなく、領土の問題ではないでしょうか。しかし、「領土問題は存在しない」という政府見解に基づいているというのは、わけがわからない。

国家の問題というのは、領土問題だけではなく、国家や国民(や人種)や憲法や政府や主権や人権や司法などの諸問題が複雑に絡み合うものであり、それを教えるだけで、おそらくは数年は要すると思う。話を単純化して、政府の言っていることはこういうことだよ、と子どもたちが客観的に情報を受け取ってくれればいいのだが、こんなことを教えることで、外国に敵視するような阿呆を育てることになったら、国家は国民のためにならないし、害悪でしかないな。

ちなみに、国民と国家を同一のものと考えている人が多いのかもしれないが、「お国のため」という言葉には、国民の支配者層のためという意味と、支配される側の一般庶民のためという2つの意味がある。それを分けることができない人は、70年前の戦争の時のように、自分の同胞を不幸にすることになる。


大学は官僚の植民地 [学問]

東京新聞:「国立大は文科省の植民地」 83校に241人出向:政治(TOKYO Web)

「(国立大学が)文科省の植民地になっている」というのは、自民党の河野太郎前行革担当相のお言葉。河野氏は実態を正確に掴んでいる。

事実、大学が官僚の天下り先になっているだけではなく、官僚はカネをちらつかせて、国立も私立も関係なく、すべての大学を脅し、自分たちの言いなりにし、上意下達の意思決定組織に変貌させてしまった。国立大学の独立行政法人化の本当の目的はそれである。かつて大学のトップであった「学長」は、もやは教授会の選挙で選ばれるのではなく、文科省の意思によって選ばれるようになり、大学の自治と民主主義は完全に崩壊してしまった。

結果、教員も学校も、学生ではなく、文科省の方を向いて教育をするようになっている。本来のリベラリズムの普及とは無関係な、全体主義的な植民地教育が行われるようになってしまったのだ。悪いのは、日本の侍であるお役人様(ちなみに、江戸時代以降の侍は役人だったので、戦士のイメージは完全に間違い!)と、現状に目をつぶって、穏便にすまそうとする大学教員と、事実を知ろうとしない一般庶民だ。

子供を大学に進学させる前に、親御さんは大学の惨状を知って、投票行動を変えていただきたい。日本を変えることができるのは国民の代表者である代議士(representatives)だけなのだ。

今の大学は、ご子息のことなど一切考えていない。考えているのは、カネを稼ぐことと、文科省の役人に叱られないようにすることの2点のみ。人類の幸福、民主主義の発展などの、高尚な理念を念頭に置いて教育に尽力している教員はほぼ皆無である。

文科省が民主主義を葬り、全体主義社会の建設を推し進めているのにはわけがある。それは官僚と民間企業との癒着である。すべては「天下り」のためである。民間企業は、民主主義ではなく全体主義を基盤とする組織である。民間企業に就職することを、いつからか「社会人になる」などと、トンデモナイ言い方をするようになったが、企業の論理は社会の論理とは大きく異なっている。だから、本来、企業に入っても「社会人」にはなれない。「会社人」になるだけだ。企業では独裁者の言いなりになる「社畜」になることが求められる。搾取が当たり前の組織なのだ。反対に、一般社会では、すべての人の意思が尊重され、誰をも搾取してはいけないという考えが基本になっている。社会というのものは、複数者の意思が尊重されて、ひとつの解決法が導き出される空間である。現代の学校教育では、そのような民主主義的な考えにもとづき、組織づくりをしている。ところが、文科省が民間企業の意思に従うようになり(天下りのため!)、学校にも上意下達の意思決定システムを導入するようになった。社会で役に立つ考え方として、権力者(強者)に従順になることを教えこんでいるのだ。その結果、学校組織が、まるで民間企業の組織というか、軍隊組織のようになってしまった。学校が「社会」で暮らすために必要の姿勢を養う場所ではなく、それとは別物の奴隷化教育が行われているのだ。奴隷の労働力は数値化され、きわめて短期的な目標達成率で評価される。それは合理的な考えなのかもしれないが、人類の幸福には貢献しない。一部の権力者(強者)のみに貢献する考えでしかない。残念ながら、文科省が推し進めていることに疑問を持つ人が今では少なくなってしまった。労働者の中での会社員の割合が増え、民間企業の考え方が唯一正しい考え方であるような錯覚に陥っている人が増えたからだろう。これを食い止めるためには、大学教育の「脱植民地化」が望まれる。


法政大、軍事研究を禁止 「本学の使命の対極にある」:朝日新聞デジタル

法政大に限らず、大学では軍事研究などしてはいけない。国民を不幸にする戦争に加担する大学は、大学の看板を下ろすべきだ。特に、理系の大学や国立大学の理系学部は恥を知れ!「貧すれば鈍す」という言葉の意味を考えろ!

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