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ピエル・パオロ・パゾリーニ監督、『奇跡の丘』(1964年、伊・仏) [映画]

奇跡の丘 - Wikipedia

監督・脚本は詩人にして小説家でもあるピエル・パオロ・パゾリーニ。原題は「マタイによる福音書」。Wikiにある通り、「マタイによる福音書」に基づいて処女懐胎、イエスの誕生、イエスの洗礼、悪魔の誘惑、イエスの奇跡、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、ゴルゴダの丘、復活のエピソードが描かれている。

取り立てて特徴はないが、聖書を読んだことがない人や、字の読めない人たちなどに、紙芝居のようにわかりやすく伝える効果を狙った教育映画の様相を呈している。パゾリーニという名前だけで、芸術映画的なものを想像したが、的外れだったかもしれない。

しかしながら、細かく見ていけば、いろんな効果を狙っているのがわかる。映画だから当然のように登場人物たちは動いているのだが、なぜか静止しているように見えたり、バックグラウンドミュージックにアフリカ音楽っぽいものを使っていたり、手持ちカメラで撮影し、心が落ち着いているはずのところであえて手ブレさせる一方で、イエスの心が乱れているはずのところで固定カメラで撮影したり、また野次馬(衆愚)の後ろから覗き見するような撮影をしてドキュメンタリーっぽくしたり、地味に面白いテクニックを駆使している。

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イエスが自分の体だとして12人の使徒たちに食べさせるパンは、クラッカーのような、畳鰯のようなあみあみになった板状のパンだ。

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英語やドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語などユダヤ・キリスト教文化圏の言語では、右は権利をも表すが、その由来となったのはこれ。

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聖母マリア。

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兵士が脇腹を槍で突く場面は描かれていない。その傷と合わせてイエスには5つの傷がついているとされるエピソードもあるが、マタイ伝には描かれていなかったのかもしれない。

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耳が痛い。

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老眼ですから。

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日本人もです。

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年ですから。

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「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」。イエスがこの言葉を発し、叫び声を一つ上げたあと、町が崩壊するというのは、「マタイによる福音書」にあったのかどうか覚えていない。

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こういう洞窟がお墓だったのでしょうか。

黒澤明監督、『わが青春に悔なし』(1946年) [映画]

わが青春に悔なし - Wikipedia

いまこそ日本の人々が見るべき映画だと思う。

「学問の自由」の文部省による弾圧に抵抗する京都大学の八木原教授(大河内傳次郎)が大学を追われる。

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八木原教授の娘の幸枝(原節子)は、学生運動のリーダー野毛隆吉(藤田進)と、しぶしぶ彼に付き従う糸川(河野秋武)と三角関係の中で思いが揺れていたが、野毛は警察に逮捕されてしまうと、自分がほんとうに愛しているのは、野毛であることを悟る。数年後、出所した野毛は人が変わったように温厚な性格になって戻ってきたように思われたが、幸枝は野毛が猫を被っていることを見抜く。

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野毛のあとを追って東京に出た幸枝は、ようやく彼の居所を突き止め、彼の妻になる。

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野毛は、戦争を防ぎ、日中関係を良好にしようという運動を行っていた。それがために「戦争妨害」の罪(!)で当局に再び逮捕されてしまう。同居していた幸枝も事情を知っているはずだと睨まれ、数日間、身柄を拘束され、取り調べを受ける。

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幸枝は迎えに来た父親に引き取られる。京都に戻った直後、野毛が獄死したことを知らされ、乱心する。

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野毛は「自分は10年後にみんなに感謝されることをしているのだ」と生前に話していた。幸枝はそんな野毛の妻であることを心から誇りに思い、野毛の両親の家に押しかけ、農家の「嫁」として無理やり働かせてもらう。

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野毛の家は、村の衆から「スパイの家」とされ、国賊扱いされている。

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野毛の父親(高堂国典)も母親(杉村春子)も、身分違いの女性が突然訪問してきて、息子の嫁であると言って家に居座ることが受け入れられない。

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幸枝を売国奴扱いする村の人々は、ネトウヨを髣髴とさせる。このシーンは恐ろしいほどの迫力を感じさせる。

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幸枝は、慣れない田んぼ仕事を、野毛の母親とともに行うだが、村の人々によって、せっかく植えた稲をめちゃくちゃに踏み荒らされてしまう。

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それでも、二人は、野毛一家を中傷する看板を引っこ抜き、稲を起こしていく。その姿に、ショックでオシのように黙って身動きができずにいた父親が立ち上がり、一緒に稲を起こしていくのだ。

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国家の手先のような検事となった糸川が、野毛の家を訪ねてくる。そこで、農家の嫁として働く幸枝を見て腰を抜かす。糸川は、野毛の墓参りをさせてもらいに来たのだが、幸枝は断固拒否する。

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そして、敗戦。日本に再び自由が戻ってくる。

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八木原教授は、京都大学に戻り、「君たちの座っているところにかつて野毛という男がいた。彼は身を賭して日本を守ろうとした。君たちも彼のような人間になってもらいたい」と、学生たちに訓示する。

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幸枝は、野毛の実家で、村の女性たちの生活を改善するための活動をし、村の人々にとって必要不可欠な人間として敬意を持って受け入れられていることを母親に伝える。

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「わが青春に悔なし」などと、私に言える日は来るのだろうか。


成瀬巳喜男監督『山の音』(昭和29年) [映画]

山の音 - Wikipedia

原作は川端康成。脚本は水木洋子。主演は山村聰、原節子、上原謙。

この作品は、息子の嫁に対する老人の愛の物語である。かつ、視点が重要なテーマになっている。原作とは、細かい点はもちろんのこと、結末も違うので注意。

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閑静な鎌倉の高台に、老夫婦と若夫婦が同居する家がある。一家は経済的には何の不自由もない生活を送っている。映画の冒頭にあるように、夕飯に伊勢海老やサザエを食べられるほど、裕福なのだ。

一家の主である尾形信吾(山村聡)は、息子の嫁の菊子(原節子)を実の娘以上に可愛がっている。それは、もしかしたら菊子の明るい表情や声の裏に隠された暗い部分に惹かれているからかもしれない。

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息子の修一(上原謙)は、父親の信吾が経営する銀行(会社?)に勤めている。修一は、献身的な嫁がいるにもかかわらず、よそに愛人を作って、帰りが遅くなることもしばしば。息子の不貞に老夫婦は深く心を痛めている。

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それでも、修一は菊子と夜の営みを求める。だが、夫の不倫に気づいている菊子は乗り気ではない。

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上原謙は、ご存知、加山雄三の父上である。

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『青い山脈』のヒロインを演じた杉葉子は、この作品では社長付きの美人秘書だ。

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修一の不倫相手は、この美人秘書ではなく、修一の愛人との知り合いという設定だ。修一の父親の信吾は、彼女を通じて息子の愛人の家を突き止める。しかし、本人との面会の覚悟が決まらず、後日ふたたび一人で訪れることにする。

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唐突だが、信吾の友人(十朱幸代の父、十朱久雄)が、共通の友人の形見として、子供の能面を買ってくれないかと職場に頼みにやってくる。能面は見る角度によってさまざまな表情を見せる。その魅力的な顔に惹かれた信吾は即座に購入を決める。このエピソードは、見る人(の視点や視野)によって、相手の印象が違って見えることを象徴するものだ。最後に、原節子がビスタ(Vista)という言葉を使って、映画が終わるのだが、そこにつながる一本の太い線を作っている。

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実の娘の房子(中北千枝子)が、夫の相原と仲違いして、子供を連れて鎌倉の家に戻ってくる。

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家族揃ってテーブルを囲むが、それぞれが目も合わさない様子から、仲の悪い若夫婦(修一と菊子)との対応に老夫婦は手を焼いているのが伝わってくる。

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信吾は、美人秘書の仲介で、修一の不倫相手と同居する女性との面会を果たす。その女性を演ずる丹阿弥谷津子は、初期の『釣りバカ日誌』の中で三國連太郎扮する鈴木建設代表取締役社長の妻を何度か演じている。その後、奈良岡朋子に代わったが。

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酔いつぶれて帰ってきた修一に健気につくす菊子。

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修一はなんの風の吹き回しか、「今日は東京に出ないか」と言って菊子を映画に誘う。菊子は「それどころではないの」と答え、そのシーンはカット。二人の論争は静かに省略されるのだ。東京の病院に行くという菊子を、信吾は病院まで送り届ける。一緒に玄関を出る二人はまるで夫婦にようだ。菊子はいつものような笑顔を浮かべるが、もはや観客には作り笑いにしか見えない。

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菊子はこのときすでに修一の子供を堕胎していたのだが、老夫婦はその事実に気づいていない。

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新聞の投稿に、老夫婦の遺書が掲載されているというので、老母(長岡輝子)はそれを読み聞かせる。老夫は菊子の前で軽口を叩くと、突然、菊子は理解不能な反応を見せる。

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その後、信吾は、菊子の堕胎を知り、彼女に堕胎をさせたことを修一に難詰する。しかし、修一は、菊子自身が望んだことだと反論する。

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堕胎をした後だとは知らない老母は、出戻りの娘房子の赤ん坊を、菊子に預け、子守させている。このシーンのみを見れば、穏やかな印象を受けるが、堕胎の事実を知っている観客には、あまりに残酷なシーンに思える。信吾は菊子に子守をすぐにやめさせ、体を休めるように命じる。

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菊子は、自分の部屋で誰かに手紙を書こうとしていたところに、信吾が入ってくる。信吾は菊子に堕胎をしなくてもよかったのではないかとやさしく語りかける。

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信吾は、修一の愛人である絹子のもとを訪れる。絹子を演じるのは角梨枝子だ。川島雄三監督、佐野周二出演の『とんかつ大将』(1952年)や渋谷実監督、井伏鱒二原作の『本日休診』(1952年)で、私には馴染みのある女優さんだ。

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絹子は、修一との間に子供が出来たという衝撃的な事実を信吾に伝える。修一は絹子に堕胎を暴力的に迫ったため、彼とは別れたというのだ。そして、子供は自分のお腹の中にいるのだから、私のものである。子供を産むか産まないかは自分の自由だと主張する。信吾は絹子に手切れ金を渡して、立ち去る。

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房子(中北千枝子)は、自分がうっかり煮すぎてしまったほうれん草を文句も言わずに黙々と食べたことを非難しない父を咎める。この非難には、思っていることをはっきり言うべきだという意味が込められているのだろう。だが、この映画の中の登場人物はみな一様に自分の思いを正直には語ることができないでいる。まさに日本的である。

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房子(中北千枝子)の夫である相原(金子信雄)は、修一の説得によって、どうやら房子とよりを戻すことができたようだ。

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しばらく実家に戻っていた菊子に信吾は新宿御苑(だと思われる公園)に来てくれと呼び出される。どこか吹っ切れたかのように見える表情を浮かべる菊子。その声は本当の菊子の声だと修一は言う。せせこましい東京のど真ん中に広々と広がる公園の中を二人は恋人であるかのように肩を並べて散歩する。

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信吾は、菊子が修一と別れる決意を固めたことを確信し、それを切り出すと、菊子の表情が突然崩れ、涙を流し始める。

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ラストシーンのセリフはこうである。

信吾「さあ、顔を拭きなさい。一緒に歩けないよ」
菊子「はい」
信吾(公園を見渡して)「のびのびするね」
菊子「ビスタに苦心してあって、奥行きが深く見えるんですって」
信吾「ビスタってなんだ」
菊子「見通しっていうんですって」

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川端の原作では、死が強いテーマになっているようだが、この映画では、視点や視野というものが影の主役になっているようだ。視点や視野を変えれば、ものの見方が変わる。非常に興味深いテーマである。

もちろん、ビスタというのは、映画に詳しい人ならピンとくるはずだが、ビスタビジョンのことだ。ビスタビジョンは1950年代にアメリカで開発された、アスペクト比1.66:1の横長の画面サイズのこと。この映画のような35mmフィルムより、視野が広く、奥行きが広い映像が撮れる。このセリフには、成瀬巳喜男の映画礼賛も込められているように思える。

これは成瀬が48歳か49歳のころの監督作品だが、いまの私と同年齢であることに驚く。ちなみに昭和29年は1954年だから、戦争が終わってからまだ9年しか経っていない時期だ。

こういう古い映画を見ると、自分たちがどこに立っているのかが、晴れ晴れとした視界の中でだんだんと見えてくるから実に楽しい。

余談だが、上に掲載した写真を見ると、どれも構図がピタリと決まって美しいのがわかる。


今井正監督『青い山脈』(1949年) [映画]

青い山脈 (映画) - Wikipedia

原作は、石坂洋次郎。配役は原節子、龍崎一郎、池部良、杉葉子。この作品は「新子の巻」という前編に当たる。ロケ地は「なまこ壁」で有名な静岡県の伊豆下田。

新米の英語教師 島崎雪子(原節子)が田舎町の女学校に赴任してくる。島崎は教え子が引き起こした事件をきっかけに、生徒たちを封建的な伝統や慣習から解放し、学校を民主化しようと孤軍奮闘する。ところが、それが町の人々を巻き込んで大騒ぎに発展してしまう。この作品を見ると、我々が暮らす戦後の日本が、いまだに戦前の封建社会の残滓の中にあることを思い知らされる作品だ。

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寺沢新子(杉葉子)は、お小遣いを稼ぐために、自宅の卵を失敬し、街場のお店に持ち込んで買い取ってもらおうとする。店主のかわりに店番をしていた学生の金谷六助(池部良)と意気投合。新子は六助のために食事を作ってやる。

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新子は母親が二人もおり、その不幸の原因を知るために、町で評判の占い師に姓名判断をしてもらいに六助とともに行く。その現場を女学校の下級生が目撃し、新子の同級生に密告。下品な羨望と好奇心に駆られた同級生たちがニセのラブレターを新子に送るといういたずらをする。

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この事件をきっかけに、原節子演ずる島崎先生は、クラスの民主化運動を開始する。ところが、島崎のナイフのような鋭い姿勢がクラスメートたちのプライドを傷つけてしまい、問題がこじれて、学校全体の問題にまで発展してしまう。

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新子にニセのラブレターを送った張本人は、この女学生だ。

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いつもの上品な原節子ではなく、吹っ切れた原節子が見られる。島崎先生は、自分は間違っていないし、新子も間違っていないのだから、もしこの町が自分たちを許さないのであれば、二人で東京へ行って暮らしましょうなどと言って、島崎先生は新子を励ます。

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島崎先生は、「私は東京で英語を教えて暮らせるけれど、あなたは背が高くて美人なだけが取り柄だから、ダンサーにでもなるしかないわね。踊れるの?」などと軽口を叩き、新子にダンスを教える。ちなみに、新子を演じた杉葉子は、現在、御年89歳でロサンゼルス住まいだが、原節子は亡くなるまで鎌倉で暮らした。この対比が面白い。

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教頭と校長に呼び出され、理想と現実は違うのだから、この町でやっていくためには、嘘でもいいから、生徒たちに謝罪するようにと勧められる。いつもどこかで聞く嫌なセリフである。教育者の風上にも置けない。

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島崎の厳しい態度に憤慨した女学生は、彼女に謝罪を要求する文を黒板に書く。しかし、間が抜けている。島崎先生は3個所漢字の間違いがあることを冷静に指摘する。(さて、間違いがわかりますか?)

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そこへ、島崎先生に敵意を抱く岡本先生(藤原釜足)がクラスに割って入ってきて、教師に楯突くような女は、嫁の貰い手がなくなるから、島崎先生に謝れと、興奮した学生たちをなだめようとする。若い頃の藤原釜足は、たけし軍団の「つまみ枝豆」そっくりだ。

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ところが、その封建的で不まじめな態度は、よりいっそう女学生をたちを焚き付けることになる。こういう底意地の悪い教師は、夏目漱石の『坊っちゃん』の「赤シャツ」を髣髴させる。

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新子はイライラしながら町を歩いていると、偶然、六助と遭遇。事件の顛末を六助に話し、その後、快活な男子学生たちとテニスを楽しみ、晴れやかな気分になる。

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さらにその話が、六助の先輩にあたる、校医の沼田(龍崎一郎)に伝わる。沼田は、民主的な考えを持つ島崎と接し、自分も封建的な世間に妥協していたことを真摯に反省している。

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島崎先生は音楽の先生からも応援される。意外にも、島崎の味方は大勢いるらしい。

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六助と彼の友人のゴンちゃんに家まで送られてきた新子は、彼女を待ち伏せしていた意地悪な女学生たちと鉢合わせする。新子は衝動的に首領の女学生を張り倒してしまう。

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翌日、職員会議が開かれる。校長たちは、事件が町の人々に知られることを防ぐために、なんとしてでももみ消すことが重要だと考え、島崎先生に生徒たちの前で謝ってもらおうとする。しかし、校医の沼田という心強い援軍を得た島崎先生は、勇ましくその提案を拒否する。

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原節子の決然とした表情はなかなか見られるものではない。

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島崎先生は、校医の沼田の前では、なぜかしおらしくなってしまうのが可愛らしい。

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隠れた援軍が登場。彼女も、島崎先生の味方であることを表明しにわざわざやってくる。年寄りが、若さに期待するのはいつの時代でもあるのだなあ。

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町の有力者である学校の理事 井口甚蔵(三島雅夫)を取り囲んで、教頭たちが料亭で芸者をあげて作戦を練っているところ。そこには、島崎先生に恨みを持つ女学生の親ばかりか、校医の沼田と対立する岡本先生(藤原釜足)もいる。デーモン小暮閣下の母、木暮実千代は芸者の梅太郎。梅太郎は自分が面倒を見ている後輩の芸者が、井口に遊ばれ、妊娠させられた挙句、捨てられたことを恨んでいる。一方、梅太郎は、校医の沼田に好意を持っており、沼田が好意を寄せる島崎に対しては複雑な感情を抱いている。

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こちらは、沼田邸での作戦会議。

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そこにスパイの女学生が、翌日配達される新聞を持ってやってくる。そこに書いてあるのは、完全なフェイク・ニュース。生徒たちの民主化運動を、島崎先生が弾圧したと言うのだ。この記事を書かせたのは、町の有力者の井口ある。三島雅夫はいつもこんな感じの悪役ばかりだな。

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沼田は、「民主主義なんて言っても、裏を返せば、この程度のものなのだろう」とため息をつく。これは現代の日本にも通じる。

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メガネを掛けたスパイの女の子が可愛い。

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沼田たちの作戦会議のさなかに、花澤徳衛扮する百姓がやってくる。すぐに主人を診てもらいたいというのだ。

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このシーンは石原裕次郎の映画っぽい。

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池部良の野生の感覚が呼び覚まされるこのシーンは、『昭和残侠伝』(1965年)の風間重吉を思い出させる。

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沼田は往診に行く途中、町の有力者である井口に頼まれたヤクザたちに待ち伏せされ、トンネルの暗がりの中で滅多打ちされてしまう。

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最後に、沼田医院から笑顔で帰る島崎先生、新子、六助、そして何か不吉なことを察したかのような飼い犬の吠え声の対比のシーンで、突然終わってしまう。

私は、この作品が2つに分かれていることを知らないまま見たので、あと10分のところで、どうやって終わらせるのかと思って、ハラハラしてしまった。録画が途中で切れたのかと思ったが、そうではなかった。後編は、BSで放送されていないと思うので(されたのかもしれないが、録画していない!)、いつ見られるのかまったくわからない。続きが非常に気になる。

しかし、前編後編を合わせて作った吉永小百合・浜田光夫 主演の『青い山脈』(1963年)のほうはすでに見ているので、結末はわかっているけれどね。1963年版では、原節子演ずる島崎先生は、芦川いづみ。めちゃくちゃ可愛い。ガンちゃんの役回りは、高橋英樹。保護者会で、哲学的なことを言って煙に巻く作戦を実行する。

坪島孝監督、『クレージーの無責任清水港』(1966年) [映画]

クレージーの無責任清水港 - Wikipedia

クレージーキャッツ主演の「時代劇シリーズ」第3作で、「無責任」の文字を冠した最後のクレージー作品。脚本が未完成のまま撮影に入ったらしく、支離滅裂な展開になっているが、それがかえってクレージーキャッツらしい軽快さを醸し出している。

しかし、その表面的な明るさとは引き換えに、インチキな封建社会、責任感の強さを装う無責任な人々、見せかけの義理人情への揶揄という重たいテーマが隠されているように思える。

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主人公の「追分の三五郎」(植木等)は、無銭飲食とスリとイカサマ博打で生計を立てる「無責任」(?)な男だ。確信犯的な無銭飲食で牢屋に放り込まれた三五郎は、ハッタリをかまして他の囚人たちを手懐けている森の石松(谷啓)を権力の座から引きずり下ろす。だが、三五郎と石松とはよい相棒になる。

その後、牢屋を追い出された三五郎は、先に釈放されていた石松が仕えている清水次郎長(ハナ肇)一家に草鞋を脱ぐ。三五郎は次郎長一家の財政が厳しいのを見かね、助っ人を買って出て、ライバルである鷹岡の勘介一家に乗り込んで、丁半博打で勝負をし、金をたんまりと巻き上げてくる。それがもとで、一家同士の闘争に火がついてしまう。賢明な次郎長は一計を案じ、密かに三五郎と石松を清水から追い出す形で逃がしてやるのだが、旅の途中、一家の危機を知った二人は清水に舞い戻る。ここまで物語の半分は過ぎている。

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石松は一杯飲み屋の「ひさご」の女将お蝶(団令子)に密かに想いを寄せている。いったんは清水を出るが、自分が立派になって戻ってくるまで待っていてくれとお蝶に頼む。お蝶は亡くなった父親からヤクザ者とは夫婦になってはいけないという遺言を託されていたため、石松からの求婚を断ってしまう。しかし、お蝶は次郎長のおかみさんから石松を追いかけるように勧められる。これは古い封建主義的な考えに囚われてはいけないというメッセージだろう。

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このあたりは本筋とは大きく関わる話ではないが、クレージーの他のメンバーの出演シーンとして楽しめる。ハッタリの剣の腕を買われて、敵討ちの助太刀を頼まれる三五郎。

田崎潤演じる剣豪の横山隼人は、三五郎と話し合いをして大げさに立ち振る舞うことで、自分たちがより一層強い者であるかのように見せかけ、お互いの価値を上げようという取引をする。こういうヤラセもまた当時の時代背景を映す鏡になっているようにも思える。幸運も手伝って、三五郎は剣豪を倒す役目を果たす。

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石松との再会を果たすお蝶。加山雄三の『若大将』シリーズの「アンパン」(団令子)がなぜか可愛く見える。

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次郎長は、敵の一家と対決を子分たちに宣言する。ハナ肇が凛々しく見えるから不思議だ。

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無用な闘争に巻き込まれたくない三五郎は「しがらみ」に囚われない「無責任」な生き方を石松たちに説くが、忠義を重んじる石松に感化され、考えを改め、次郎長一家の助太刀に向かう。もっとも「無責任」そうな三五郎が、もっとも責任感が強いというのが強烈な皮肉になっている。

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組同士の抗争が始まった直後、三五郎が仲裁に入る。いったんは草鞋を脱いだ次郎長一家の助太刀をするのかと思いきや、三五郎は自分を人身御供にして抗争をやめるように説得するのだ。親分たちは、三五郎の仲裁案を飲んで、抗争を中止する。これは非常に政治的なシーンである。

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棺桶に入れられて、川に放り込まれる三五郎。映画の中で、このシーンがある前に、何度か、三五郎が川に落ちるか、放り込まれそうになるかというシーンが繰り返されるため、このシーンは安心して見ることができる。

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抜け身の術を使って、棺桶から脱出した三五郎が、自分の葬式が行われているところに舞い戻ってくる。この後もコミカルなシーンが続いて、ハッピーで、クレージーな終わりを迎える。

三五郎による「仲裁」は、時代背景を考えると非常に象徴的なものに映る。太平洋戦争後、アメリカがソ連との代理戦争として相次いで起こした朝鮮戦争(1950年 - 1953年)やらベトナム戦争(1955年 - 1975年)やらを遠巻きに見る日本の立場を背景に据えて考えてみると、三五郎の役回りは、まさに日本の置かれた立場そのものに見えてくる。その姿勢は一見「無責任」に思えるかもしれないが、実のところ、重要な役目を担う可能性を持っている。日本はアメリカの子分として人殺しの手伝いをするのではなく、武力を使って激突するだけしか脳のない奴らの頭を冷やすために(三五郎が何度も水をかぶるのは象徴的だ!)、頭と口を使って仲裁することこそ、「責任」を果たすということなのだという裏メッセージが隠されているように思える。

それにしても、この作品のように、カラっと明るい作品は、なぜかいま日本では作られなくなってしまった。我々は、どこでどう間違ってしまったのだろうか。我々は今こそ『無責任』シリーズを観て、「責任」の意味を捉え違えてしまった自分たちのクレージーさを反省しなければいけない。

ジョシュア・マイケル・スターン監督、『スティーブ・ジョブズ』(2013年) [映画]

スティーブ・ジョブズ (2013年の映画) - Wikipedia

アップル・コンピューター(現アップル)の創業者の一人であるスティーブ・ジョブスが、スティーブ・ウォズニアックら仲間たちとガレージでコンピュータ作りを始める。彼らの試みに関心を抱いた投資家のマイク・マークラの支援を受け、アップル・コンピューターは人気の企業へと成長する。しかし、マイクは経営陣の方針に味方し、ジョブスを裏切り、ジョブスは自分が創業した会社から追い出されてしまう。その後、ジョブスを追い出したアップルの株価が暴落してしまう。暫定CEOに戻ったジョブスは、マイクを含む旧経営陣を解雇し、復讐を果たす。

伝記映画にありがちな焦点を欠いた散漫な構成に陥っているが、主眼は、ジョブズが自分が起業した会社を他人に奪われるという屈辱的な場面だろう。そこをじっくり丹念に描いてくれれば、この作品はもっと良かったと思う。中心軸がグラグラしているので、単にスティーブジョブスの独善的で狂気的な側面ばかりが強調されてしまっている気がする。

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家庭用パソコンの試作品を披露するスティーブ・ウォズニアック(ジョシュ・ギャッド)の才能に驚くスティーブ・ジョブス(アシュトン・カッチャー)。

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投資家のマイク・マークラ(ダーモット・マローニー)。彼がいなければ、いまのアップルはなかった。

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好評を博すアップルIIの発表会

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最初のマッキントッシュであるMacintosh 128K。取締役会の意向で、価格を抑えるためにメモリの性能の低いものを選んだことが失敗の原因。

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取締役会の決定で、自分が創立した会社から追い出されるスティーブ。アップル・コンピューターを創業したときからのパートナーであった投資家のマイクに裏切られる。

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精神的なショックを癒やすために、実家のガレージに戻るスティーブ。血のつながりのない育ての父親との深い心の交流が生まれるシーン。

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解雇された後、ジョブスは一時、NEXTという会社からパソコンを出すが鳴かず飛ばずの状態。

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ジョブスが追い出されてからの、アップルの株価はどん底。救世主として、ジョブスは当時のCEOギル・アメリオによってアップルに引き戻される。そして、自分を裏切ったマイクと再会する。

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ここで、ジョブスはジョナサン・アイブと出会う。ジョナサン・アイブはその後のアップルのコンピュータのデザインを作ったデザイナー。これはiMacの原画。復帰以後、スティーブは積極的に自由な発想を会社に取り入れる。

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非常勤顧問として復帰したスティーブは、実権を握るために画策して暫定CEOになり、自分を裏切ったマイクを会社から追い出し、復讐を果たす。

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ものの見方、考え方を変えることを重視するアップルのコンセプトを語るスティーブ。我々はクレージーなことを天才だと見なすという言葉にしびれる。

私自身、ここ数年、自分の人生の転機について考えているところなので、自分が作った会社から追い出されるスティーブ・ジョブスの心の傷と、自分がやろうとしていたことを、株主や経営の都合で、中止させられるような経験の描写が、深く心に突き刺さった。

スティーブ・ジョブスのように成功することは、凡才の私にあり得ないが、しかし、彼のようにクレージーに考えることは可能だ。このえいがのお陰で少しだけ勇気をもらうことができた。

年をとると、新しいことができなくなる。どんな仕事に就いていても、いつのまにか役人のようになっていく。たいていの人は、黒澤明監督の『生きる』(1952年)の前半部分での志村喬のような「生ける屍」になるものだ。志村喬は最後には、自分の夢(住民を幸せにするという夢)を叶え、「死んで生きる存在」になるのだが、私もそんな人間になりたかった。


ジョン・ファヴロー監督『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』(2014年) [映画]

自分には才能があると思っているけれども、環境のせいでその能力が発揮できていないとお嘆きにあなたに、ぜひとも見ていただきたい作品がある。それはジョン・ファヴロー監督作品『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』(2014年)だ。

主人公のカール・キャスパー(ジョン・ファヴロー)は、ロサンゼルスの一流レストランのシェフ。オーナーのリーバ(ダスティン・ホフマン)は、カールの独創性を活かすことなく、ひたすら定番料理ばかり作らせる。そんな折、有名な料理ブロガーのラムジー・ミッシェル(オリヴァー・プラット)がやってきて、自身のブログでカールの料理は新鮮味がないと言って酷評する。それを知ったカールはツイッターでラムジーに喧嘩を売って大炎上。カールは、ラムジーを店に呼んで、自分が考えた料理を食べさせてやろうとするのだが、頑固なオーナーのリーバはカールに定番料理を作るように命じる。とうとうカールは堪忍袋の緒が切れて、店を出ていってしまう。しばらくしてから、店に戻ってきたカールは、ラムジーに直接怒りをぶつける。

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そのやり取りがYouTubeにアップされ、ウィルスのように拡散してしまう。結果、カールを雇ってくれるレストランは一軒もなくなり、カールは無職となる。

意気消沈したカールに勇気を与えるのが、レストランの美人ウェイトレス。演じるのはスカーレット・ヨハンソンだ。カールは妻と別れた後、彼女といい関係になっている。なんとも羨ましい。監督の役得だぞ、こりゃ。

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もう一人、カールを励ましてくれるのは、元妻のイネズ。美人。コロンビアの女優らしい。いい加減にしろ、ファヴロー!

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カールは、イネズの最初の夫であるマーヴィン(アイアンマンのロバート・ダウニー・Jr)を頼ってフロリダへと向かう。彼はマーヴィンからオンボロのフードトラック(移動販売車)を購入する。夏休み中の息子のパーシーに手伝わせ、そのトラックを掃除し、設備を揃え、メキシコ料理を販売しながら、フロリダからロサンゼルスへアメリカ横断の旅をする計画を実行に移す。

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そこに、カールの元部下であるマーティンも合流する。三人は旅を始める前にまず、トラックに調理器具を積み込む作業を手伝ってくれたキューバ人の移民労働者たちに、キューバ風のサンドイッチを振る舞い、彼らの反応を見る。

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三人は、キューバ人たちの満足そうな様子を見て自信をつける。

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カールは息子のパーシーにサンドイッチを焼く作業を任せる。パーシーはうっかりサンドイッチを焦がしてしまうのだが、どうせただで配っているだけなのだから、彼らに食べさせてしまえと生意気なことを言いだす。カールは、それは聞き捨てならないと言って、息子にたっぷり説教する。ここはなかなかいいシーンである。

「お父さんは、誰かが自分の料理を食べて喜んでくれることが人生の最大の楽しみなのだ。その楽しみを奪うとはどういうことだ!」

要するに、人間はお金を稼ぐために仕事をしているのではない。その仕事が自分を楽しませてくれるからこそ、仕事をするのである。お金はもちろん大事である。しかし、人はお金を稼ぐために働いているのなら、お金は貯まる一方だ。貯まっても使わなければ、何も楽しくない。稼いだお金を何かに変えて、自分や自分の愛する人たちが幸せになるように使うのだ。そのために働いているのだ。

これは私の持論である。今日も同じような話を学生の前でしてきたばかりなので、キャスパー親子の会話は腑に落ちるところがあった。

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この後、三人は、ニューオリンズとテキサスで、その土地の食材を活かした料理をお客にふるまって、最終目的地である本拠地のロサンゼルスへと向かう。その間、いまどきの子供であるパーシーがTwitterやFacebook、VINEなどを使って、フードトラックの宣伝をし、土地土地で彼らの料理は大いに人気を博す。

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その情報を聞きつけた、有名ブロガーのラムジーが、お忍びでカールの屋台料理を食べにきて、大絶賛する。ラムジーは自分のブログを売って儲けたお金を使ってロサンゼルスの繁華街にレストランを購入したので、そのシェフにならないかとカールに申し出る。

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カールは、その申し出を受け、犬猿の仲だった二人は共同で仕事を始める。カールと元妻の関係もヨリが戻りそうな気配。息子と三人で暮らし始めるのかどうかは明確ではないが、それがほのめかされているのも後味がスッキリしていていい。

カールが作る料理はみな非常に美味しそうだ。この映画の本当の主役はやはり料理かもしれない。あまりにうまそうなので、料理好きだったら、何度も料理のシーンで一時停止ボタンを押して見入ってしまうはずだ。私自身も、視聴中に、何度もよだれを垂らしそうになった。ニューオリンズのフレンチ・クオーターにあるカフェ・デュ・モンドのベニエ(四角いドーナツ)やキューバ風サンドイッチを機会があったらぜひとも食べてみたい。やはり、私のブログのサブタイトルではないが、人生には美味しいものと物語が絶対に必要だと思う。

ニューオリンズ風ベニエ揚げドーナツ by *茜* 【クックパッド】 簡単おいしいみんなのレシピが277万品

映画のキューバサンドを厚切りベーコンで by Akicocoaki 【クックパッド】 簡単おいしいみんなのレシピが277万品

ネタバレ [映画]

町山智浩がシャマラン監督最新作のネタバレをしたと炎上…ネタバレを過剰に責める風潮は「批評の自由」を奪う!|LITERA/リテラ

文学研究者はみなネタバレを前提にしており、結末を明かさないなどという作法とは無縁である。

一方、映画評論家は、宣伝マンと研究者の中間くらいのポジションなので、関係者と観客の両方が納得するような地点を見極めるのは難しいようだ。

ジェイムズ・キャメロン監督、『タイタニック』(1997年) [映画]

タイタニック (1997年の映画) - Wikipedia

授業でシナリオを読んでいるので、予習しながら見ています。

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タイタニック号の内部では、蒸気機関を動かす火夫(かまたき)が頑張っていた。

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これは例の有名なシーンの伏線。

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タイタニック号の後ろ姿。人間の手で作られた動くのものの中で最大のものとのこと。

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アイルランド人の青年が、タイタニック号を15000人のアイルランド人が作ったという話をしているところ。

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ジャック・ドーソン(レオナルド・ディカプリオ)が船尾から飛び降り自殺をしようとしているローズ・デウィット・ブケイター(ケイト・ウィンスレット)を救う場面。いっしょに飛び込むのは水が冷たくて辛いだろうなと言って説得する場面。これもラストシーンの伏線になっている。

ケン・アナキン監督、『バルジ大作戦』(1965年) [映画]

バルジ大作戦 - Wikipedia



第二次世界大戦末期のバルジの戦いを描いた作品。実際の戦いとはだいぶ違っているらしい。ロケ地もスペインだし、撮影に使われている戦車も別物。偶発的に起こった「マルメディの虐殺」も計画的なものとして描かれているし、その他のエピソードもフィクションばかりとのこと。だが戦車隊の激闘が見ものだし、ストーリーは漫画みたいでけっこう面白い。

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戦車隊を指揮するヘスラー大佐を演じるのは『サブウェイ・パニック』(1974年)のロバート・ショウ。

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アンレーブ陥落。

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ヘンリー・フォンダ扮するカイリー中佐の乗る偵察機が、霧の中で進軍する戦車隊を発見し、本部に報告した直後、撃ち落とされてしまう。

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ヘスラーは部下に、戦争のために戦争をしているだけだと見抜かれる。国民を守るための戦いではなく、国民を兵士にするための戦争だと。ヘスラー大佐の言動は安倍総理を彷彿とさせて、背筋が凍る。

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最後は、アメリカ軍の燃料を奪いにやってきたヘスラーらをヘンリー・フォンダたちが撃破して、めでたしめでたし。

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バルジ大作戦 特別版 [DVD]

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